介護の賃金が上がらない理由

先日日記を公開した際に「介護の賃金がなぜ低いのか」という意見をいくつかいただいた(統計を見ると若干上がっているようだが1、業界団体的には「従業員の確保が困難」な程度であるようだ2)。この問題は「高齢化問題(のうち特に年金財政の悪化)は少子化対策では解決しない」=「長寿化とは老いの苦しみが長引くことである」といった議論と並ぶ、長寿化議論の中核をなす問題の一つで、𝕏ツイッターではよく解説しているので、この機会にブログに固定しておこうと思う。

介護の生産性を上げられない

介護の賃金が上がらない理由の一つは、介護は生産性を上げにくい――一人当たり、単位時間あたりの処理量を増やしにくいからである。

多くの労働集約産業では、機械化で生産性が大きく向上してきた。製造業ではかつて家内制手工業の時代は職人が鑿と金槌を振るって一つずつ作っていたものが、機械化により短時間でで何百という数を作るものに変わっている。輸送業においても、かつては船や鉄道からの荷下ろしは人手に頼り、そのために日雇いの人足が大量に雇われていたが、今は重機でコンテナを吊り上げフォークリフトでパレットを運び、かつての何十人分もの仕事を一人でこなしている。

では、介護ではどのような方法で生産性を向上させることができるだろうか。介護はその特性上、機械化しても短時間化が難しい部分が多い。入浴介助にしても食事介助にしても要介護者側のペースに合わせる必要があるため、多少機械化しても単位時間処理量が製造業などのように増えるわけではない。訪問介護であれば移動時間などもあるからどうしても一人が単位時間あたりに見られる数には限界が出てくる。

今現在の技術で介護の生産性がはっきり上がるほどまで機械化しようとすると、イレギュラーが起きにくいような閉じた環境、介護カプセル的なものに入ってもらって、ロボットアームが決まった動きでお世話をし、介護者はパノプティコンのように数十名から数百名をカメラで同時監視するくらいしかないだろう。これはどうしても非人間的な印象与えてしまうし、これを大々的に導入しようとしてもかなり抵抗があるだろうと予想される。

以上のように、機械化で数十倍の処理効率の向上が起きるようなスケーリングが起きにくい、というのが介護の生産性向上を阻んでいる。介護の業界でも、生産性について「介護分野にとっての生産の指標は、民間企業における付加価値額のようなものではなく」と、金額評価の向上を諦めたかのような文言になっている2

需要側の値下げ圧力

介護の待遇を下げているもう一つの要因は、需給状況の悪化と介護保険によるカルテルである。

消費者サイドの自家供給による代替圧

まず、介護は大変でそれなりに経験も必要ではあるものの、利用者の家族による自家供給が禁止されているわけではない。このためあまり価格が上がると業者を利用する代わりに家族が自分たちで行うようになる。これは保育士でも共通する一方、法律で業務独占が決まっており、スキル的にも代替が難しい病院(医師および看護師等コメディカル)とは異なる。この代替性があるために、利用者負担をあまり上げることができないという価格キャップが存在する。このため時間当たりの生産性が上がらないとどうしても売上が伸びない関係にある。

受益者の支払い能力の低さ

次に、介護保険無しで純粋な受益者負担とすることを考えよう。当たり前だが高齢者世帯は現役世代より所得は低く3、貯金を切り崩しながら支払うにしても生産年齢人口より支払い能力は低い。支払い能力の低い受益者に対して労働集約的で生産性が上げにくいサービスを提供しようとしても単価は上げにくい。

国民皆保険という消費者カルテル

介護は「人道的に誰もが利用できるべきだ」という発想の元、その支払い能力の低い、貯金もあまりない年金生活者でも使える価格設定になっている――この価格を強制しているのが国民皆保険としての介護保険である。

国民皆保険では、全員が単一の保険主体に参加しているため、ほとんどの国民は皆保険を通じた支払いを選び、自費診療は稀である。単一で巨大な支払い主体たる皆保険は、いわば消費者によるカルテルとして機能し、強力な価格交渉力を持ち、それを診療・介護点数という形で行使している。

皆保険は消費者カルテルであるから、消費者に都合の良いようにギリギリまで値下げされる。例えば医薬品については、保険適用の薬価を下げ過ぎて採算割れして生産中止になるといった報告が最近相次いでおり4、普段相当な無茶振りで財政支出を減らせと言っている財政学者ですら医薬業界の持続可能性について言及するほどである5。逆に皆保険というカルテルがないと、アメリカのようにいわば「命を人質に取って」価格を吊り上げられるため青天井で上がっている。

米国医療事情は、国民皆保険制度ではない為、政府のコントロールが弱く、市場原理が機能し、技術開発へのインセンティブが働きやすいことが、医療技術の発展を促すと同時に、医療費の高騰化をもたらすと言われている。その他には、訴訟に備えた医療過誤保険料や高齢化の進展や所得の伸び、医療保険の普及、不必要な支出の存在(医療過誤への備えや、過剰な医療等)が指摘されている。とのことである。6

消費者カルテルたる介護保険が、支払い能力の低い受益者を基準に価格を設定しているため、そのしわ寄せが介護の労働者に行っている構図である。政治的な言い方に直せば、皆保険は国民全体が関係するため、受益者の利用負担にしても、費用負担者たる現役世代の保険料引き上げにしても、不満を持つ票数が有権者の大部分になるのに対して、介護一業界の票数はそれに比べたらずいぶん小さいため、多数決において多数派が少数派にしわ寄せをしているともいえる。

支える人と支えられる人の比率

現代は支える人と支えられる人の比率が崩れている。別項で述べた通り、高齢化すれば少子化と無関係にその比率が崩れるし(平均寿命80歳・定年60歳で1990年の高齢従属人口比にするには出生率が4必要)、少子化への転換点となっている団塊の世代が高齢化したことで悪化は極大を迎えている。

従属人口比率 日本の従属人口指数の年次推移7と、世界の2019年頃の従属人口指数8

年代別人口で最大である団塊の世代は、その現役時代は6人で1人の高齢者を支えていたが、彼らが高齢者になった今、彼ら1人を約1.3人の現役世代が支えるという割合になっている9。6人で1人を支える時代であれば、介護者1人に6人から集めた金を渡せば良いので十分に報いることができたはずだが(当時は介護保険の制度の整備前だったが)、1人で1人を支える時代には介護者に十分な賃金を出そうとすると、支える側の負荷が大きくなりすぎ、介護者に報いることが難しくなっている。

しばらく前までは高齢者福祉の負担に対する議論では「誰しもいつかは自分が高齢者になるのだから、自分のことを考えて……」という常套句があった。かつてはその文句は高齢者の福祉を維持する理由として出されていたが、1人で1人を支える今は、「タイムマシンで若い自分が老いた自分を介護しなければならないとすれば、何年やりたいか?」という問いに変換できてしまう。こうなると前後不覚になった自分を1年生かすために若く自分のやりたいことのある1年を捨てるのか、という自分の中だけに完結した議論になり、「弱者を見捨てるのか」という論難を回避して「自分の中で完結した誰にも迷惑をかけない自分ごととして介護を減らすことを望む」と発言する人が出てくる。現在𝕏で高齢者福祉を減らせという議論が遠慮なくなされるようになってきたのは、私がこの理路を示したことで「私自身が介護されることを望まない」と宣言すれば「弱者を見捨てるのか」といった倫理的非難を回避できるようになった側面もあるだろう――と個人的には思っている。

倫理的に非難されず介護の生産性を上げるルート

ここまでかなり暗い話を書いてきたが、介護の生産性を上げ、そこで働く人の賃金を上げつつ福祉負担を減らしていくルートもないではない。

先に、今現在の技術で介護の機械化を行うと、どうしても非人間的な印象与えてしまい抵抗がある、という点を述べた。しかしこれを介護ではなく自立支援というフレームワークに落とすと、機械を使い、支援者が多数の人を同時に監護するような状況にしても、あまり文句が出ない。

ボタンを押したら入浴を自動的に完結させるカプセルを、介護者が放り込むのではなく、利用者が自発的にボタンを押すのであれば、それは「自立支援」であって非人道的なモノ扱いとは一線を画する。SFチックな宇宙船内の入浴カプセル、あるいはディストピア的な社畜用入浴カプセルのようなものは想定しえるし、それは無味乾燥だが非人道的ではない。入浴介護には機械アームが被介護者を車いすから降ろすオプションでもあればよいのだろう。

足腰が弱って介護が必要になるならば、再生医療だろうが老人のサイボーグ化だろうが、足腰の機能を復活させるほうが介護の必要性は減り、機械化によって対応できるために生産性が上がり、老人自身も自立しやすくなることでQoLが上がる。痴呆が進んで徘徊するようになるなら、サイボーグの手足にその検出機能を付けて、GPSで位置を知らせたり、動きを停止したり、医師の指導の下に鎮静剤を自動注射したりする「治療」も可能になるだろう。

「介護の機械化」は、おそらくこのような自立支援という別の形で実行される可能性が高いと考えている。

長寿社会という「セルフ姥捨て山」に生きる

長寿社会は、いわば「セルフ姥捨て山」である。例えば寿命が200歳になれば合計特殊出生率が2.0あっても人口の2/3が高齢者という、高齢者しかいない社会――明示的な「姥捨て」がなくとも、社会そのものが「姥捨てされた先の高齢者しかいない社会」に等しいものになる。

長寿社会を維持するということは、「セルフ姥捨て山」を作ることにほかならず、老人は自立を要求されるし、そこであるべきは介護よりは自立支援になるだろう。85歳に届く寿命を維持するにしても、別項で説明している定年の延長はおそらく避けられないし、我々が高齢者になったときにはそうなる覚悟は必要だと私個人は考えている。

(2023/08/10)