不死なれど不老ならず:ディストピアとしての長寿化
ここのところ年金に関する論争が喧しい。「老後の設計は自助努力で」「老後を年金だけで暮らせないのはおかしい」「若い世代は年金の払い損だ」「政府が目減りさせたに違いない」等々、様々な意見が見られる。年々負担の額は増し、定期的に受給年齢引き上げの議論が沸いてくるので、不満なのはごもっともである。そしてしばしば年金を“悪化”させた犯人探しが行われるが、その犯人については長寿化――長生きするようになったことそのものであり、少子化すらこれに比べれば影響は軽微――であることを説明し、ありうべき対策について考えていきたい。
長寿化が年金に与える影響
長寿化が年金に与える影響をざっくり分析していこう。まず単純に、年金がシンプルな積み立て式で、物価は変動しない(またはインフレ率=利子率である)とした場合を考える。この時、ある人が定年60歳、平均寿命70歳で老後を10年分と見積もって年金を積み立てたものの、定年を迎えると平均寿命が80歳、老後が20年になっていたとしよう1。もしそうなのであれば、年金を半分に薄めて(期間あたり消費額を半分に減らして)暮らさないと足りない目算になってしまう。もし年金が積み立て式であったとしたら、寿命が延びれば少子化と関係なく使える月額は減る。年金が薄まらないようにするには(我慢して)積み立てる額を倍に増やさねばならない。積立を増やさず薄まらないようにするには、定年を伸ばして受け取る期間を元通り短くするしかない。
次に、年金が賦課方式であった場合を考える。出生率は2.0固定で20歳就労、60歳定年を固定し、寿命が70歳から80歳に伸びたときを考えよう。寿命が70歳の時は、就労期間40年:老後期間10年であり4人で1人を支える構図となる。寿命が80歳の時は、就労期間40年:老後期間20年であるから2人で1人を支える構図となる。この状況で年金を維持するには、就労年齢人口が倍払うか、老後に受け取る金額を半分にするか、定年を68歳まで遅らせるしかない。
結局、積立方式でも賦課方式でも、寿命が延びた影響を受け止める方法は「負担を増やすか、受取を減らすか、定年を伸ばすか」という三択に帰着される2。これらの選択肢はどれも感情的には受け入れがたく、こうなった犯人探しをしたいのは分かる。しかし、これらはすべて少子化の影響を抜きにして長寿化だけで生じる効果である。積み立て方式はそもそも個人内で完結するもので人口動態の想定を必要としないし、賦課方式も上の説明は出生率固定で寿命だけが延びる想定で行っている。
「現実には賦課方式で少子化が起きているのだから、少子化の影響はあるのではないか」という反論もあるかとは思うが、長寿化の影響は少子化対策で解決するのは簡単ではない3。後者の賦課方式のモデルの場合、定年60寿命80で4人で1人を支える構図を維持するには合計特殊出生率が約3.9、1世代ごとに倍々ゲームで増える必要がある。また上記試算は定年60平均寿命80の想定だが、実際の寿命は84まで伸びており、(定年が固定なら)これに追従しようとすれば出生率は4.42まで増える必要がある。1970年代のように定年55歳のままなら必要な出生率は5.6になる。さすがにこれは現実的ではない。こと年金問題においては、長寿化の前には少子化など些細な問題に過ぎず、このため私は定年変更が正しいと考えているほどである。
年金問題を悪化させた犯人は長寿化そのものである。この問題を解決するには、老後貧しく暮らすか、若い時期の負担を増やすか、老いてなお働くかの三択しかない。長寿はめでたいことなのに、長寿の結果もたらされた帰結は苦しい。――一見パラドキシカルではあるが、長寿は、本質的に老いを長引かせるという苦痛を内包する、そう考えればこの帰結も不思議ではないだろう。これは突拍子もない意見ではなく、過去の文学作品でも時折取り上げられているものである。それを切迫した自分の問題として感じるようになったのがごく最近のことだ、ということに過ぎない。
不老ならざる長寿の苦痛
ここまで述べた通り、私は長寿化問題への対策としては定年延長を支持している(少子化対策をしようにも合計特殊出生率3.8という実現不可能な数字を要するため)。ただ、この定年延長案は評判が悪い。たとえば高齢者よりの立場としては、「身体的にきつくて働きようがない」「高齢になっても働いているのは金欠でやむを得ないからであって働くべき年齢ではない」といった意見が聞かれる。一方で若い世代からは、「昇進が詰まるとモチベーションが下がる」「老人になって働いても、能力は限られており、頭が固くプライドだけは高いので邪魔である」といった声も聴かれる。――もちろん、個々人をみればそうでない人も多いだろう。老いてなお矍鑠という人も少なくないし、政治家、社長、教授といったパワフルな仕事をしてきた人たちを見れば70歳でも22歳の大学生よりぎらついている人もいるくらいである――しかし総じていえばやはり老化はするのであり、多かれ少なかれ体には慢性病を抱え、目は遠くなり、関節は痛み、物覚えは悪くなり、コンピューターやスマホなど新しいメディアにすんなり適応するのは難しくなる。老人に対して一律に働けというのは厳しいと言われれば否定できない。
しかし、若者の数が相対的に少なくなれば、ある程度「自活」という要素が入るのはやむを得ない。極端に言えば、若者の比率が極端に下がれば――例えば平均寿命が100歳になり、200歳になり、老人が大半を占める世界になれば、頼りにする人がいないのだから自活するしかない。飯を作るのも、運転するのも、介護するのも、家を建てるのも、道具を作るのも、サービスに従事するのも、高齢者が高齢者のためにやらなければならない部分が出てくる。社会全体が長寿化するというのは、本質的に「老いてなお自活せざるを得ない社会になる」ことそのものである。退職者向けのバスツアーの長距離バスの運転手が同じ年代の未退職者であるケースなどざらにあるし、老々介護はもはや常識で定年退職した65歳の前期高齢者が87歳の後期高齢者を介護するなどという状況は日本中のどこにでもある。
ガリヴァー旅行記の“予言”
スウィフトの「ガリヴァー旅行記」は非常に有名な作品だが、1章の小人の国、2章の巨人の国、4勝の人獣の知性が入れ替わった国などと並び、3章で「無限に老化する不死の人の国」が登場する。この第3章では、主人公ガリヴァーは(現実世界では太平洋である場所に位置する)ラピュータなどの国々をめぐり、日本を経由して英国に戻る4が、日本の一つ手前で訪れるのがラグナグ王国である。ラグナグ王国にはストラルドブラグ(struldbrug)という不死なれど不老ならぬ人間が登場する。ガリヴァーはラグナクで彼らのことを聞かされると不死のすばらしさを夢想するが、王国の人々はガリヴァーに対し不死でも老いてしまうがゆえに「不快なもの」「厭らしい生」になり果てる、と説く。この作品では、不死だが不老ではないストラルドブラグたちのコミュニティは、一種のディストピアとして描かれている。少々引用してみよう。
……この八十歳になると、彼等は老人の愚痴と弱点をすっかり身につけてしまいます。おまけに決して死なゝいという見込みから、まだ/\たくさんの欠点がふえてきます。頑固、欲張り、気むずかし屋、自惚れ、おしゃべりになるばかりでなく、友人と親しむこともできなければ、自然の愛情というようなものにも感じなくなります。
……彼等は自分たちが若かった頃に見たことのほかは、何一つおぼえていません。しかも、そのおぼえているということも、ひどくでたらめなのです。だから、ほんとのことをくわしく知ろうとするには、彼等に聞くより、世間の言い伝えに従う方が、まだましなのです。 ……彼等は満八十歳になると、この国の法律ではもう死んだものと同じように扱われ、財産はすぐ子供が相続することになっています。そして国から、ごく僅かの手当が出され、困る者は国の費用で養われることになっています。
九十歳になると、歯と髪の毛が抜けてしまいます。この年になると、もう何を食べても、味なんかわからないのですが、そのくせ、たゞ手あたり次第に、食べたくもないのに食べます。しかし彼等はやはり病気にはかゝるのです。かゝる病気の方は、ふえもしなければ減ることもありません。話一つしても、普通使うありふれた物の名まで忘れています。人の名前などおぼえてはいません。どんな親しい友達や親類の人と会っても顔がわからないのです。本を読んでも、ぼんやり一つページを眺めています。文章のはじめから終りまで読んで意味をたどる力がなくなっているのです。ですから、何もかも一向面白くはないのです。
ジョナサン・スウィフト(著)、原民喜(訳)「ガリヴァー旅行記」青空文庫
スウィフトの述べるこれらの特徴は、定年延長案に寄せられる「身体的にきつくて働きようがない」「能力は限られており、頭が固くプライドだけは高いので邪魔である」という意見と同質のものである。つまり、これらは「老いの止まらない長寿」においては時代を問わず、洋の東西を問わず、普遍的な現象であるといってよいだろう。
ガリヴァー旅行記の中ではストラルドブラグたちは80歳が“法定寿命”であるとされている。翻って日本はどうであろうか。2019年現在、平均寿命は83歳に達している――もし日本がラグナグ王国であれば、現在人口の1割近くが“生ける法的死者”であり、人の半分以上が80を超えて生き、“生ける法的死者”状態を経験するはずである。日本は今やストラルドブラグの現実版になりつつある。いや、人口の1割が80を超えるということはスウィフトさえも想定していないほどの超長寿国家となりつつある。
スウィフトもあくまで超長寿とは何かという寓話として書いており、決して「予言」ではなく年金の話など関係もないが(ストラルドブラグは国家福祉で暮らす)、不老ならざる長寿が苦痛である可能性をよく描き出していると言えよう。ガリヴァー旅行記ではラグナグ王国は日本の隣に置かれているが、日本が現実世界において超高齢化社会に一番乗りしているのは、皮肉な話である。
不能なる不死者の苦痛は、スウィフトに限らず、近代の創作でも度々テーマに取られる題材である5。おそらく神話でも探せば出てくるだろう。近代になって初めて出てきた概念ではなく、昔から普遍的に問われるテーマである。ただ、“不老ではない”ということを自覚せざるを得ないレベルまで平均寿命が伸び、誰しもにとって身近な問題になったのは今世紀に入ってからではないだろうか。
長寿化はやはり寿がれるべきだ
さて、ここまで長寿化社会は老いの苦痛を受け入れねばならない一種のディストピアだと書いてきた。煽る人の中には、「もう日本は高齢化しきっていて未来がない、日本から脱出したほうがいい」なんてことを言う人もいる。それが真に問題だと思うなら、長寿化への抜本的“対策”として、姥捨てでも安楽死でも、長寿を禁止すれば社会は若返るだろう――現実にはそうはしないだろう。老いの苦痛と死の苦痛で、いまだ後者のほうが大きいのは変わりあるまい。長寿化に歯止めをかける社会というのは、今以上にディストピアめいた社会と感じるに違いあるまい。あるいは、日本から脱出したほうがいい、というのを実行するのも手だろう。ただ、若年人口全体が同じことを思って実行したならば、それは「立ち去り型姥捨て」と呼べるものになるだろう。以前、「立ち去り型福祉崩壊」としてデトロイト市を取り上げた6ことがあったが、やはりそれは一種のディストピアであった。
長寿化は老いの苦痛を長引かせるということからは逃れることはできない。かといって、長寿化を“止めれ”ばそれ以上の苦痛がある。結局、我々は老いの苦痛と付き合っていく方法を考える必要がある――これが現状であろう。
長寿化する社会での高齢者の自活方法
さて、長寿化を止めるわけにはいかないので、老いの苦痛を緩和する対策は考えねばなるまい。――ここからまた長くなるので、筆者としてはモチベーションを再充填する必要がある。と言うわけで、ここでは簡単な箇条書きのメモのみ残して本日は筆を擱く。皆様から老いの苦痛を緩和するご意見を頂ければ幸いである。
- 真の意味で生産性が上がれば働く必要のある人は減るはずでは?という説
- 貯蓄を求めてしまうOLG長期停滞モデルからの説明
- 50歳第一定年、70歳第二定年モデル
- etc...
(2019/06/11)
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日本では1970年当時は男性の平均寿命が70歳、2010年当時は80歳であり、1970年に20歳で就職して2010年に60歳で定年を迎えた人はこれに近い状況である。もっとも、1970年当時は定年55歳が主流で、想定される老後の伸びは15→20年、老後年次/就労年次比は0.42→0.50とそれよりは効果は小さく、定年延長のおかげで完全積立式の場合でも積み立て不足は2割というところである。 ↩︎
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積立方式でも賦課方式でも結局対策が同じ範囲に落ちるのは、これらが「働く人が作った財やサービスをどう分配するか?」という問題に帰着できるためである。積立と賦課は小手先の違いに過ぎない。 ↩︎
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雑学的ではあるが、リリパット、ラピュータ、フウイヌムなどの章題に登場する国の中で唯一日本だけ実在の国である。 ↩︎
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自分が覚えている限りでは手塚治虫「火の鳥」でそのような話があったかと思う。 ↩︎