なぜ私は男女平等の建前で殴り続けるのか
私がジェンダー論にコミットするようになって足掛け5年になるが、記事に対するリアクションを見ていると、「不愉快な議論を仕掛けてくる男」という見方と(実際、教条的フェミニズムの立場の人から数件ブロックされている)、「男女平等にとって大事だが見落としがちな急所を指摘するディープなフェミニスト」という受容(実際、大学で社会学をやっている方から案外多くフォローされて好意的リアクションを頂いている)という、両極端な受容のされ方をしている。今回は、なぜこのような両極端な受容のされ方をしているのか、自分なりの考察、あるいは「種明かし」をしていきたいと思う。
男女平等の原理原則
私は、ジェンダー論を書くにあたって、以下のような原則に従っている。
- 「女は○○なものである」といった偏見、男女の生まれつきの違いを可能な限り認めない
- 男女の機会平等を確保する
- 1と2の結果として結果平等を期待する
この3点は、どれも男女平等の建前、原則として掲げられているものであり、積極的にこの原則を踏み外すということは避けている(下方婚忌避を取り扱っているので1の偏見を持っているのではないかと言われそうだが、これについては原則「現在現象として観察されるが、取り除けるはずだ」というスタンスである)。このため、軽率な反論を受けても、たいていの場合は反論を「男女は違うという偏見に基づいている」「機会平等に反する(特に女性側に不利に)」「それをやると結果的に女性が不利になる」等、反論者を女性差別サイドに追い込んであしらうことができている。
また、基本的には「女性の声を優先する」という立場を取り、女性の声を「あるべき社会」像として採用している。最近はフェミニズムの知識も深まってきたので、社会統計以外はほぼ女性著者でフェミニズムにおいて一定の評価を得ている著作(Sandberg, Slaughter, Goldinらによる)のみで論を構成するようになっている。
「男女の違い」のスペクトラム
以上のように基本的に男女差別反対、女性の声尊重というスタンスで原則を守りつつ書きながら、なぜブロックするほど嫌う人が出てくるのか。これについては受ける反論の傾向から言えば、1の「男女の生まれつきの違いを可能な限り認めない」という原則が拒否されている――言い換えれば女性側から「女性は男性と違うのだから違う扱いをしてほしい」という声が出ているのが主たる拒否理由である。
「女性は男性と違うのだから違う扱いをしてほしい」というのは、根本的には理がある。「男女の生まれつきの違いを可能な限り認めない」といっても、違うものは違う。例えば、女性は妊娠出産することができるが、男性にそれはできない。これは決して超えることができない絶対的な壁である。また、平均的に言えば男性のほうが身体能力に勝り、女性のほうが力は弱い。個人レベルであればこの壁は超える例などいくらでもあるが、傾向としては遺伝的に決まっており強固である。赤ん坊に今すぐ立って働けとは言えないように、どうしようもない超えられない壁については考慮されるべきだろう。
一方で、「どうしようもない」「変えられない」と言っていいかどうか、難しいものもある。例えば女性が自分より学歴・所得が下の男性と結婚することは稀で(下方婚忌避)、この傾向自体は非常に強固に観察されるが、ではこれが「生まれつき」かと言われると議論の余地があるだろう。少なくとも、「女は男に依存する性質が先天的に備わっている生き物なのだ」などと言えば、普通は差別扱いされるだろう1。また、先進国では女性がある程度自主的に進学先を選べるが、むしろ先進国ほど女性はSTEM系や法学・経済学を進学先に選ばず、人文学・教育学・芸術などが女性に好まれる傾向も一般的に観察される。
以上のように、男女の違いとして観察されるものでも、「誰もが認める否定しようのない先天的違い」から「現象としては強固に観察されるが、先天的と認めたくない違い」まで、スペクトラムは広がっている。女性の態度も様々であり、下方婚忌避では女性ですら(進化心理学論者と同様に)先天的で変えられないと主張する人が少なくなく、教育や環境のためという主張は声をひそめる。少なくとも、婚活で「女性が(多めに金を払うなど)リーダーシップをとって主夫希望の男性を集める」といったことは行われておらず、口先の主張はどうあれ実行は少数例に留まる。一方、進学選択問題では先天的と主張する人は少数派となり、現象の説明として「そのようなジェンダーロールがあり教育や家庭での態度の問題だ」といった主張になることが多い。また、当然ながら同じ問題に対して異なる態度をもつ女性が混在している。
「男と女は違う」をどこまで認めるべきなのか?
それでも男女の先天的違いは可能な限り認めるべきではない
男女には違いがあり、万人がそう認めるものあれば、人によって認めたり認めなかったりするものある。それでも、「男女の違い、偏見を可能な限り認めない」という規範は存在する。この規範が存在する理由はいくつかあるが、私がまず取り上げたいのは、性差を前提として社会システムを組むと、{女性はこういうものだという決めつけ}を社会の中に組み込むのに等しい、ということである。例えば、工学系進学希望の女性が少ないからと言って、女性は工学部に進まないという前提の進路指導要領などを作れば、仮にそれが95%の女性に利益があったとしても、5%の工学部志望の女性を差別し、個人の人権を侵害していることになる。進路志望の傾向が仮に{変えられない性差}だったとしても、それを安易に認めて迎合してしまうと、その傾向を拡大し、女性の社会の中での振る舞いをシステム・構造で規定してしまう結果となる2。これは「女性の選択肢の拡大」あるいは「本来得るべき選択肢を取り戻す」という目標から遠ざかってしまうため、避けるべきである。
この原則があるため、私はジェンダー系言説を書く上での基本スタンスとしては可能な限り先天的差を否定し、「絶対に越えられない壁である出産はバランスの必要があり、女性は産休を3か月、男性はカウンターバランスとして育休を3か月取るべきである。筋力が重要になる仕事は男性が多くなって仕方がないし、それによる社会構造上の歪みは補償されるべきである。それ以外の肉体的違いであるスタミナは個人差一般に吸収してよく、メンタルの違いは性差として考慮することはない」という立場をとっている。
女性にとって「男女は同じはず」言説が不愉快に感じられるとき
男女の先天・後天(本能・環境)論で問題になりやすいのは、主に境界領域で、それが先天的と考える女性と後天的と考える女性が割れる領域である。典型例は私がよく扱っている女性の下方婚忌避への反対論、「女性は出世のために主夫の内助の功を頼れ3」論だろう。最近でも、男性のノーベル賞受賞者やスポーツ選手が妻の内助の功に感謝する発言があると、SNSフェミニズム論壇では「内助の功が得られる男性特権を誇るな、女性の犠牲の上だ」的な言説が付随して起きることから、内助の功の利益は理解しているのだと思われるが、「女性も主夫の内助の功に頼ってそれを得ればいいのでは?」と問うと途端に歯切れが悪くなり、しばしば「論理的にはそうなのかもしれないが、主夫を持つなんて私たちは望んでない」という答えが帰ってくることがある4。男性が「男には甲斐性があるが女はそれを持てない、女は男に頼ろうとする心を持っているのだ」などと言えば間違いなく差別だが、女性側(の過半数)からは結果的にそれと同じことになる主張が口を突いて出てくる2というのが現状である。
スローターも、多くの女性は「男女平等な夫婦」のあり方として「仕事とも家事もフィフティフィフティで完全に対等な夫婦」というものを想定している(=女性稼ぎ手モデルは考えていない)と書いており5、主夫に違和感があるのは、アメリカの女性も同じようなものであるということだろう。ハードワークを内助の功で支えるという片働きを「オトコ化」と定義して「男女平等はオトコ化した社会に合わせることではない、女性が望む夫婦像に合わせて社会が作り替えられるべきなのだ」とする主張は、理解できないことはないし、今書いているマガジン「21世紀の女性の仕事、結婚、出産 ~生き方を選ぶ私の選択~」でも、そうできるところはそうすべきだとしている。
しかし、そうできない職もどうしてもある。例えばスローターも、フィフティフィフティの夫婦では(サンドバーグの「リーン・イン」に描かれるような)エグゼクティブを目指すのは難しい(=ハードワークのため主夫の内助の功が必要)と書いている6。これが問題である。日本は、教育や健康などの人間開発指数で扱われる部門は男女格差が少ないが、政治家や経営者などエグゼクティブの男女格差を示す「ジェンダーギャップ指数」だけが突出して悪く、センセーショナルなためよく報道にも取り上げられる。そのため、今日の日本で「男女格差を解消せよ」と言えば女性エグゼクティブをいかに増やすかという議論になってしまい、夫婦が50:50の役割分担ではエグゼクティブは目指せない以上は女性だって主夫を持てる7ことに賭けよう、と説くしかない、という状況になっている。
しかし、(ある種の)女性の立場でこれを聞けば、「出世するなら主夫を選べ」という提案に乗るのも不愉快、かといって自分の非理性的感情を容易に認めて「女は育児」という役割分担を固定するのも不愉快ということで、どれを選んでも不愉快、下手に反論すると認めたくないことを認めさせられる上、不愉快な選択を迫る相手はジェンダーギャップ指数など男女差別反対の錦の御旗を握っていて差別者と罵ることもできないという状況になる。正直、不愉快なのもさもありなんと思いながら書いている面はあるが、これ以外のポジションを取ると何らかの形で男女差別を認める・黙認することになってしまうので許していただきたい。
全ては得られないにしても、最適のバランスを取ることを目指すか
杓子定規な男女平等論は冒頭で挙げた1~3が完備しているとき無矛盾に成立するが、1の「性差を可能な限り認めない」という制約を崩してしまうと、2の機会平等や3の結果平等が崩れることを甘受せざるを得なくなる。このため、差別者と言われないために杓子定規な男女平等論を墨守すると、ここまで述べた通り、男女の違いを最小限しか認めず「下方婚忌避傾向もSTEM系忌避傾向も環境が作り出したものなので、女性が自発的に合理的下方婚を考慮したりSTEM系を望むよう教育を《矯正》する」という方向以外取りようがない。
ただ、女性側で「このような不愉快な二択を迫られたくない、私/私たちにとって最も快適な状態に至れるのなら、慈悲的差別やその他の差別がある程度残ろうとも構わない」という立場を取れるのであれば、話は別である。すなわち、1の「性差を可能な限り認めない」という立場を緩めるために、2の機会平等や3の結果平等が崩れることをある程度甘受するということである。「平等(equality)は他の何にも勝る至高の価値である」という制約を取り払う、という重大なトレードオフになるが、それを飲めば不愉快な二択からは逃れられるし、単に「女性の幸福の最大化」(幸福の定義はここでは詳しく考えないものとする)を目指す政策・制度を取り、その時に結果平等が達成されずジェンダーギャップ指数が一定の上昇で打ち止めになることを甘受する、という選択は不可能ではない。
例えば私が今書いているマガジン「21世紀の女性の仕事、結婚、出産 ~生き方を選ぶ私の選択~」では(出世したい女性向きの記事と並んで)、表向き《ワークライフバランスを取りたい男女》のための職業選択ガイドなどを書いている。これは《男女》のためのガイドで機会平等を順守しているが、おそらく今の女性の好みから言えば、事実上女性のためのガイドとして機能し、結果平等をもたらさない、ジェンダーギャップ指数を改善させはしないと考えている。ただし、個々の女性にとってはWLBを取れる上にそこそこ働けそこそこ稼げ幸福な人生を歩むための有用なガイドになるだろうと想定している。
ただ一方で、それは無制限に認めていいものではないと考える。露悪的に書けば、南北格差を無視して途上国低賃金メイドを使うなり、実力不足でお飾りになることを覚悟のうえで指導的立場に男女クオータを導入するなり、北欧のように男女別で性役割分業が強化されるのを覚悟のうえで8男性社会と女性社会でそれぞれに管理職を出すなり、女性患者の希望で女性医師が多い産婦人科で医師のWLBを重視して救急を減らすなど、さまざまな議論できるだろう。しかし当然ながらこれらを本気でやるならば別の倫理的問題が付きまとう。結局、少しマシで倫理的にもなんとなく受け入れられる(罪の意識を引き受けられる)程度の制度に落とし込んで何とかするしかないのではなかろうか。
私としては自分を性差別者の立場に置きたくないという臆病な態度から杓子定規な男女平等論を書いているだけだが、リアクションを観察することで、女性の反発を見ながら、どの程度までの性差を社会は認めるか?というベンチマークとするくらいのことはしながら、この5年間書かせてもらっているし、今後もそのスタンスはあまり変わらないのだろうと思っている。
(2020/1/19)
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これを「生まれつき」だと主張する人々もいて、その際には進化心理学を持ち出す。 ↩︎
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慈悲的差別の罠:女性への思いやりは容易に構造的差別に転化するにて、「女性側の希望であったとしても、その実としては男女差別の別の表現に過ぎない」という説明を行っている。 ↩︎ ↩︎
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白河桃子「専業主夫になりたい男たち」(ポプラ社)はストレートにこれと同様の主張をしている。このほか、 ニッセイ基礎研の調査など、夫婦の働き方で「女性が主たる稼ぎ手となる」となる選択肢がそもそも存在しない調査も多く、スローター「仕事と家庭は両立できない?:「女性が輝く社会」のウソとホント」(NTT出版)でも殆どの女性は「仕事と家事が完全に対等な夫婦」は想像していても女性稼ぎ手-男性主夫モデルをめったに想定していないことが描写されている。 ↩︎
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これについては、スローター「仕事と家庭は両立できない?:「女性が輝く社会」のウソとホント」(NTT出版)の第1章を参照のこと ↩︎
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私もマガジンのほうで検討したが、エグゼクティブは業務の特性が仕事への没入を要求しがちであり、政治家・経営者・医師は{一人の働きが多くの人の生活と命を左右する}ため倫理的にも仕事への没入を求められやすい。政治家(代議士)はなるべく多くの有権者の意見を聞くべきだというのは職業倫理の問題であり、北欧の政治家が1万票の代表であるのに対して日本の政治家が10万人の代表であって意見聴取に10倍苦労するというのは、人口がそれを決めているのであって、オトコ社会が決めているわけではない。 ↩︎
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家政婦など育児の外注については「女性の社会進出のためには女性にケア労働をさせる必要がある」パラドックスを参考のこと。 ↩︎