メモ - 「勝ち組を継がせる」という悲しき渇望

たまたまのタイミングなのか必然なのか、最近「高収入な人でも子供の教育に際限なく金をつぎ込むので主観的には貧乏」という話が、国内の話としても、アメリカの新聞記事1でも出ていた。

このあたりは、大まかに以下のような原因によって発生する。

  1. 遺伝だの子供の成長にはある程度のランダムネスがあるので親子の所得水準を見ると平均への回帰が観測される
  2. ある程度以上高い所得は相対的地位の問題になる
  3. 日本を含む民主主義国では生まれによって相対的地位を継承するような制度は認められていない

平均への回帰

ある程度のランダム性があるものは、1度目の試行で上位群または下位群だったものだけを集めてもう一度試行をしても全体平均に戻ろうとするように見える。完全にランダムなものなら分かりやすく、例えばサイコロを100個振り、4以上の目が出たサイコロだけを集めてもう一度振っても、期待値は3.5であり、見た目上平均に戻るように見える(ランダムウォークを偏っているがやりがちな切り取り方で観測するとそう見える)。部分的にランダムな場合でもランダムさの比重に応じてこのような現象は発生し、「平均への回帰」として古くから知られる。

親子間の能力や地位の継承も多かれ少なかれブレがあり、鳶が鷹を生むこともあれば、名士にドラ息子がいることもあり、平均への回帰が観測される。そのブレは明白にランダム性に依拠する部分も多く、例えば遺伝子のちょっとした違いなどもあるだろうし、同じ学校に入ったとしてもクラス分けや教師の振り分けの運もあるだろう。生涯所得の面なら卒業が偶然リーマンショックなどと被って新卒時の就職が悪いと後々まで尾を引く。

今あなたが高所得なのだとしても、そのたにいくら努力をしたのだとしても、少なくない割合で幸運の恵みがあった可能性が高い(例えばリーマンショックの年以外に就職したならばラッキーである)。しかし、あなたの子供があなた同様に幸運に恵まれるとは限らず、遺伝の偶然で生まれつきバカかもしれない——それをわかっているからこそ、それを覆す条件づくりに、生活が苦しくなるほどの金を投じることになる。

相対的地位の問題

モノのサービスもほとんどない焼け野原から這い上がってくる戦後のような過程ならほとんどの世帯で親より子が豊かな生活を享受することも可能だろうが、ある程度成熟した今の日本ではそれは難しい。現在の全GDPに占めるサービス業の比率は7割であり、「何人を自分のために働かせられるか」というのが豊かさの争点になってしまっている部分がある。例えば元のツイートが問題にしている教育は、少人数教育が良しとされるように人間1人あたりの《生産性》を上げることが企図されない分野であり、子弟に与えられる教育の豊かさは「人間を雇える側か、雇えない側か」というところで決まってしまう。また、グローバル化と知的集約が進んだ現代では、相対的順位の高い人がより多くの人から薄く広くWinner-takes-allすることで高収入を挙げている要素が大きく、その点でも相対的順位が重要である2

席が限られた相対的地位の問題であることについて、「日本が定常・縮小中の国家だから……」という意見もあるが、私としてはWinner-takes-allが進んだ影響のほうが大きいと思っており、その傍証として、アメリカ程度の成長率を記録している国でもやはり同じ問題が提起されていることを挙げよう。米国エスタブリッシュメントで年収20万ドル×2馬力(世帯所得上位2%)程度の夫婦でも生活が苦しい、スーパーで卵の値段が高いことに文句を言っている等といった記事が出ているが1、その理由は自分の子供にも相対的な上位階級の豊かさを継承させようとすることにある、としている。

Compared with the old establishment that survived on inherited wealth and social position, they are insecure, and many worry that their offspring will be downwardly mobile, which leads them to spend virtually all of their outsize disposable incomes on preparing the children to become star performers in the next round of competition. (富と社会的地位を継承できた古いエスタブリッシュメントと違い、彼ら[今のエスタブリッシュメント]は不安定であり、多くの人が自分たちの子孫が[社会階層を]下方移動すると心配しており、次世代の競争でわが子がトップの稼ぎを挙げるよう可処分所得の残額をほぼそのためにつぎ込んでしまう)

もちろん、教育にも「コスパ」のよい、それをやれば誰でも頭が良くなるようなものもあるだろう。だが、そういうものは公教育に取り入れられるくらいには誰でもやるし、「人間を雇える側」という相対的な地位を保証する差別化にはならない。競合相手が支払えないほどの高額なものに手を出すからこそ相対地位を保証する差別化が可能なのであり、かつそういった手法は庶民が最初の選択肢に選ばないような、マージナルな「コスパの悪い」手法になる。このことは上述の英語記事では"zero-sum bidding war"という言葉で表されている。

公的扶助は決して彼らを救えない

冒頭のツイートにしろ、米国の記事にしろ、「自分の子弟にも高い地位、相対的に高い所得水準を継がせたい」と願う人は多いが、「年収1200万の子は年収1200万であるべきだ」というのは(前述のとおり一人当たり生産性を求めない教育等のサービス業が発達した現代では)階級の固定化を願っているに過ぎず、民主主義国家で機会平等が正義とされている日本を含む多くの国では、政府がその願いに応えることは憲法違反になるのでできない。政府は「全ての子供に良い教育を」という政策を取ることはできるが、「SAPIX代で火の車なの」などと言っている家計に特別の扶助を出すことはないだろう。

現代ではそういった家庭も少子化を理由に公的扶助を求めたりする――例えば所得制限をかけずにパワーカップルにも保育園代の支援を、というような声はよく上がるが、世帯所得別の子供の数3を見る限り、そういった家庭に扶助しても余った金で子供を増やすわけではなくSAPIX代などの"zero-sum bidding war"につぎ込まれるだけなので、少子化対策という果実は得られず機会平等という正義が失われるだけなのでやる意味がない。少子化対策であるならば、所得が増えるほど子供が増えることが分かっている世帯所得300-500万円のゾーンに金を投じるのが妥当であろうし、「国全体の経済が……」という場合でも、せいぜい大学入試の奇問難問化が進むに過ぎないSAPIX代を増やすよりは、子供を増やして天才ガチャを引く数を増やしたほうが効果があるのではないだろうか、というのが私見である。

<2023/02/05>