グローバル化によって資本の競争力が重みを増す

 グローバル化によって何が起きたかについては諸説あるが、量はともかく定性的にはいわゆるスーパースター効果1により「一握りのトップ」が所得を上げやすい環境になっているというのが筆者の私見である。このことについて、たとえ話を交えつつ説明する。

昔、100人の農民がいる村があった。この村にある男が立ち寄り、「収穫が2倍になる種を譲ることができるが、収穫の一定割合を報酬として受け取りたい」と申し出た。村人たちはこの提案を受け入れることにした。その結果、村人は100の収穫を200にすることができた。」

さて、ここで「ある男」が受け取るべき報酬はいかほどであろうか。例えば、村人は1%の収穫を男に支払えば、村人も男も約198の収入を得ることになる。その昔、交通が盛んでなかった時代はこの調子の記述が可能だが、現在は交通が発達している。

ある種苗会社が、収穫を2倍にする種を開発し、販売し始めた。この種を全世界100万人の農家が買い、それぞれ収穫を100から200にした。このとき、種はどの程度の値段であるべきだろうか。

 種が収穫の1%に相当する額だったとしよう。その時、種苗会社が得る売り上げは200万となる。上述の100人の村の例では種を売った男の収入は200だが、種苗会社は1万倍の売り上げを手にしたことになる。「村」の時代と現代、2つの条件の間では収入に1万倍の差があるが、種を提供している人の能力や努力といったものは、実は2つの条件の間で変わらない。変わったのは市場の形である。

 上述の種の話でポイントになるのは、種は知財としての性質を帯びており、最終的に労働集約的な生産を行うよりはるかにコピーが容易である、という事実である。コピーが難しい労働集約的な産業では、一人の人間が多くの顧客を相手にすることは難しい。例えば、現代でも労働集約的なコンビニのバイトは、1人でかつての100人分働くということは無理である。介護などもそうである。しかし知的財産は異なる。コピーが容易であるがゆえに、より多くの人を相手に商売し、労働集約的な生産では不可能な市場での独占を可能にする。このことについて、純粋な知財である音楽を例として説明しよう。

 20世紀初頭までは、音楽の提供は基本的に実演家によって担われていた。一人の実演家が一定時間内に得られる収入は、実演家が音を響かせうる劇場の大きさに依存する。したがって、その時代の音楽家は、原則論として劇場で得られる収入が限界であった。この時点での音楽業界は、実演家の労働集約的側面が大きく、劇場ごとに中程度の収入のある実演家がいたと大まかに考えてよい。それが一変するのはラジオやレコードの登場である。これらの登場により、1人の音楽家が相手にする市場は、一つの劇場の中だけにとどまらず、電波やレコードが届く限りの範囲に急拡大することになった。音楽家はかつてとは比較にならないほど圧倒的多数の潜在顧客を手に入れたことで、そこでの商売に成功すれば、労働集約的な職業では絶対に得られない莫大な収入を上げることが可能になった。20世紀後半にポップ音楽で大金を稼いだものが現れたのは、基本的にはラジオやレコードなど情報流通の技術革新で1人の人間が相手に出来る市場が拡大した結果である。

 商品のコピーが容易であることは、市場全体が勝者総取り(Winner-take-all)になりやすいということも意味する。労働集約的な、一人の人間の生産量に限界がある産業では、優れた生産者と言えど需要全体に潤沢な供給をすることができないため、2位以下の生産者もそれなりの価格をつければ市場が開かれている。一方で、商品のコピーが容易な産業では、消費者はベストの商品以外を選ぶ理由がない。このことから、市場ニーズを広く抑えた高機能製品がひとたび作られれば、それ以外が売れる道筋はなくなる。すなわち、一握りの勝者と大多数の敗者に分かれやすい性質を持つ。

 もちろん、敗者はそのまま負けて終わりというわけではない。コピーが容易な商品の生産における敗者は、別の商品需要にこたえるよう生産物を転換するか、似た商品ではあるが別のニッチに適合してその市場を取りに行くのが基本的な戦略になる。商品の多様性の増大を強制的に促すと言う意味で消費者にとってよりよい生産体制であることは間違いないが、ニッチな市場はあくまでニッチであり、メインストリームをとったときの収入とは比べ物にならないのも事実である。勝者の90%の能力を持つ労働者でも、勝者の1/10の収入であることもザラにある、そういう世界である。

 かつては労働集約的な職業の代名詞だった製造業や建設業も、現代では多分に知識集約的・資本集約的側面がある。量産のために特注された機械や建機を使った作業の生産性は、かつての職人の仕事を質・量ともに遥かにしのぐものとなっている。知財そのものを扱う情報産業だけでなく、製造業においてもWinner-take-allが起きやすく、勝ち組・負け組がはっきりする傾向にある。労働集約的な産業が多かった時代には商工ローンで金を借りて成立する仕事も多かったが、今ではそのようなこともなくなった

知財を売って得た「勝者総取り」所得は正当か

 さて、知識・知的財産を提供することで対価を得ているという意味では、音楽家も、発明家も、あるいは経営モデルを売っていると見れば経営者も等しい存在である。この中で、前者を“搾取”の文脈で語る人は少なく、音楽家がファンを獲得したことで搾取を強めたという人はまずいないであろうが、後者は“搾取”の文脈で語られることが少なくない。特に経営者や大企業の場合は「優越的地位の濫用」のような不正競争とないまぜになって語られることもある。しかしながら、冒頭の「収穫が2倍になる種」の例で示した通り、正当な取引の数が増えたがゆえに高所得となっている要素もあり、これらは商業倫理の上では正当な取引によって得た正当な所得とみなすべきであって、高所得な経営者や大企業を単に搾取で片付けるのは無理があるだろう。

 一方で、そのような「正当な所得」であっても、それは外部との関係からもたらされている部分もある。音楽家も発明家も経営者も、社会の人口が1/10になれば等しく所得を1/10に減らすだろう。この点において、素朴な直観としての「本人の努力や才能に比例した所得」ではないのもまた事実ではある。周りとの関係によって得られた周りあっての高所得であって、高所得者が独力で得た所得とみなすのもまた無理があるだろう。

市場が広域化することで競争力のある経営資本の重要性が増す

 資本集約・知識集約による市場の統一と、それによって勝者がメガ企業となり敗者が消えていくという構造は、しばらく前からあった。例えば、流通の改善によって[商店街が大手量販店に淘汰されていった現象|商店街がこの先生きのこるには)はそれに該当するだろう。現代は、それが全世界規模で起きており、グローバルな勝者と敗者の再編があり、多数のグローバルメガ企業とその株主であるビリオネアが生まれる一方で、敗者たちの別ニッチへの進出による再挑戦が無数に起きている時代、と見られるだろう。

(2014/05/11)


  1. Rosen, S. The Economics of Superstars, American Economic Review 71 (5), 1981: 845–858 ↩︎