萌え絵論争:オタクがセクシュアルマイノリティであるという仮説

Twitterにおける《萌え絵論争》ないし《オタク-フェミ論争》は季節の風物詩どころか日常茶飯事になってきた感があり、つい最近もそのような案件があって「またか」と思っているところである。筆者も以前「ポリティカル・コレクトネスの進展と未整理の矛盾」というエントリでそれを扱ったが、今読み返すと未整理過ぎるので、もう少し洗練させたものをこの機会に投じておきたいと思う。

男性の性欲・支配欲が反映された表現は女性にとって不快なはず、というロジックの破綻

いわゆる《萌え絵論争》におけるオタク(萌え絵)に対する批判は、非常に大雑把に言えば、「{男性向けに描かれた女性}は、男性の性欲や支配欲などが投射されており、女性にとってはアグレッシブ(な扱いを反映しているように)に映るので不愉快に感じる」というのが基本的な論理となっている。筆者はその論理は理解してきたつもりであり、かつては特に否定していなかったのだが、この10年で起きた事象を見て、その意見を翻しつつある。

その一つ目の事象は、初音ミクに関するものである。現在では人気のキャラクターだが、当初は「オタクの気持ち悪い性欲の表れ」などとくさす人が珍しくなく、例えばチューニングを「調教」と称す利用者が多いことをもってして「大衆的な支配欲・征服欲を満たすため以外考えられない」「大衆の心性の腐敗」と批判する人もいた。かく言う筆者自身も「調教」という言葉遣いには眉をひそめたものである。そして当然のごとく18禁イラストも普通に存在していた1。かくのごとく男性の支配欲、性欲といったものが前面に現れた消費・表現のされ方をしていたのだから、女性にとっては大いに不快な存在だっであろう――

――という理屈は、現実の前にあっさり崩された。初音ミクはその登場から2年後には男性より女性に人気のキャラクターとなり、女子中高生がオタクのオッサンを抜いてコンテンツの主たる消費者となったのである1。また、女性に人気となったとて、女性による女性のためのキャラクターとなったわけでもなかった。初音ミクは電子楽器の一種であり供給がユーザー制作コンテンツに限られているうえ、そのコンテンツを作っていたのは相変わらずオタクおっさんのDTMerだったからである。すなわち、男性が性欲と支配欲を露わにして作ったコンテンツであり女性にとっては極度に不快なはずのコンテンツが女子中高生に熱狂的に受け入れられる、という《奇妙な》ことが起きた。

ただ、これだけなら、DTMerたちは性欲も支配欲ももっておらず外野で騒いでいた人間の見立てが間違っていただけ、という解釈も成り立ちうる。

それすらも成り立たないのがAKB48という存在である。AKB48は「AKiBa」の略で秋葉原にいるようなオタクを狙った、いわゆる「地下アイドル」的な出自を持つ。「会いに行けるアイドル」なるキャッチフレーズを持ち、悪名高い握手券商法などボディタッチなども売り物にしており、オタク向けキャバクラまがいと言われても否定できないような、意図してそのように演出され売り出されている存在である。筆者はAKBが人気になった今でもそのコンセプトに眉をひそめている――どころか、未成年アイドルの類は児童労働・児童からの搾取であるから男女問わず禁じるべきと考えているほどである。

そのような筆者としては認めたくないのであるが、今やAKBを下支えしているのは未成年、特に小学生ぐらいの女児である2。高校の学園祭の出し物あたりの定番でもあり、男女問わず全年齢的人気があると言ってもよいが、女児に人気があるのは目立つ。オタクによる性的消費を狙って、名前とキャッチフレーズに掲げるほど意図して演出されたはずの存在であり、女性にとっては極度に不快なはずのアイドルが、女性――特に未成年に大人気となっているのである。

このような傾向は上記の2例に限ったものではない。例えば河出書房が女の子向けに出版している絵本では『子ども自身が飛びつく絵を』というコンセプトで作った結果として萌え絵に近い画風となっており、これは萌え絵を嫌う人に大きな反感を買う結果となったが、出版社や児童文学評論家は、実際に女の子が好むのだから、ということでその批判を的外れとしている34。また中国語圏(台湾や中国本土)では女性が自己を萌え絵に仮託して表現するのはごく普通のこととなっており、この傾向は国内に限った話でもない。

初音ミクは2次元オタクにとって、AKB48は3次元オタクにとって、それぞれ2010年代を代表するコンテンツである。河出書房新社の絵本も絵本としては人気のラインである。そのどメジャーなコンテンツにおいて「{男性向けに描かれた女性}は、男性の性欲や支配欲などが投射されており、女性にとってはアグレッシブ(な扱いを反映しているように)に映るので不愉快に感じる」というロジックは破綻している。こういったロジックを知っている人が「大衆的な支配欲・征服欲を満たすため以外考えられない」とまで言い切って2年後には女性人気が男性人気を上回っているのであるから、《ジェンダー論の専門家の事前の見立て》なるものがあったとしてもあてにならなそうである。

もちろん、これを感受性の違いとして説明することは可能である。少なくともある人は絵に投影されたアグレッシブネスに感受性が高いのであるから配慮すべきである、という議論である。ただ、感受性の違いを根拠とするなら、それを好む女性も(むしろ多数派レベルで)いるということであり、《女性一般に対するアグレッシブネスの表出だから公の場から排除すべき》といった議論は退けられるだろう。

また、その議論を受け入れると網が相当広くかかることは留意すべきであろう。以前に萌え絵反対派の一人が「猫画像も不愉快で自制すべき」と発言し物議を醸したことがあるが5、例えば劣悪な環境の猫カフェ・ペットショップや6、薬物等での虐待疑惑のある「ほのぼの動物写真」など78、それらがすべて無罪とは言えず、多発すれば「虐待防止のための写真流布禁止」があり得ないとは言えない。また筆者が前述した通り、未成年アイドルの類は国際条約で規制されている児童労働そのものであり、いわゆるジュニアアイドルは男女問わずグラビアや雛壇に並べるのは不愉快極まりないので、正直公の場から排除すべきであるとも考えているが、感受性の違いを問題にするならこれにも対応してほしいところである。

もっとも、これらの例があるからと言って性欲や支配欲を前面に押し出した作風への風当たりがなくなるわけではない。例えば、萌え絵が未成年女子に受けると言っても、「子どもの中には“好きな萌え絵”と“イヤな萌え絵”の区別が歴然とある」(ただし大人には分からない)ということは児童文学評論家も説明している4。またこの数年オタク界隈の中では、「なろう系」という名で、安易でご都合主義的に主人公が活躍し女性にモテモテになるという筋書きの作品が、十把一絡げに批判されている。このような傾向は最近の日本の男性向けに限った話ではなく、海外でも女性向け二次創作作品で安易にモテモテになるキャラクターはメアリー・スーという名で揶揄されるのはもはや定番である。当のオタクにとっても、性欲と支配欲しか見えない表現は不愉快なのだろう。

しかし、そのロジックがある一定の範囲で成り立つにしても、メジャーなコンテンツで成り立っていないことに対して手当しなければ、広く敷衍することは難しい。学問が学問たりえるのは、ロジックが破綻したらそれに手当をする――その営為の繰り返しがあるからである、というのはソクラテス以来変わらぬ原理だろう。メジャーな例で破綻しているロジックを留保なしに振り回している「学者」がいたとしたら、その人は学者失格と言わざるを得ない。

オタクがセクシュアル・マイノリティであるという可能性

オタクおっさんの趣味に合わせて作られた(初音ミクやAKBといった)コンテンツがそのまま未成年女子に受けるのはなぜか――これに対する答えは(筆者の観測範囲では)出ていないが、そこで、筆者はこれを説明しうる仮説を一つ提示する。それは、オタクおっさんは《少女の感性をもった大人の男》というものである。

オタクの中には「少女向け作品を好んで消費するおっさん」がおり、日本でならプリキュア、アメリカでならMy little Ponyを見ているおっさんがその代表格となるだろう。両者、特に後者は最底辺といった扱いを受ける。

従来の説明では、こういったおっさんは少女に性欲・支配欲を抱いてこれらの作品を愛好しているのであり、社会から爪弾きにすべきペドフィリア野郎ということになる。オタクが公然と侮蔑される(た)要因の一つは、このあたりであろう。しかしながら、このロジックでは、オタクがオタクの感性で自家消費するために演出したコンテンツは女性にとってはアグレッシブに感じられ不愉快であるはずだが、現実にはそれに対するメジャーな反例が存在する。

オタクおっさんが《少女の感性をもった大人の男》であるという説明であれば、少女向けコンテンツを愛好するオタクがいることも、オタク向けコンテンツがそのまま未成年女子に人気になることも、どちらも説明しうる。問題になっている萌え絵も、極端に大きく描かれた目などはもともと少女漫画が先行して持っていた特徴であり、萌え絵が少女漫画の絵の亜流・派生であるとする意見も根強い。

そして、より大きな問題は、仮に《少女の感性をもった大人の男》がいるとすれば、それはセクシュアル・マイノリティに近い性質を持っており、アドヴォカシーの観点からはむしろ守られてしかるべき――という結論を導くことである。《少女の感性をもった大人の男》を《少女でありたい大人の男》と書き下せば、その性質はよりはっきりする。

ここで注意すべきは、《少女でありたい》というクィア的特性はあるものの、性自認も性指向も男のものであり、トランスではない。ただ、トランスではないということは守られるべき対象から外れることを意味しない。「ボーイッシュな趣味だが性自認も性指向も女」であるような人に「女らしい恰好をしろ」ということに対して反発し変えてきたように、「ガーリッシュな趣味だが性自認も性指向も男」である人に「気持ち悪い、趣味を変えろ」とは言えまい。むしろ、ジェンダーバイアスから解放されているともとれる(この問題は、前回の稿で「フィギュアで遊ぶ男性はジェンダーバイアスから解放されたのか、性欲を投射して気持ち悪いと非難してよいのか」という問題として提示している)。

筆者はこの仮説が成り立つか成り立たないかについてのエビデンスは持っていないし、また仮に成り立つとしても、《少女の感性をもった大人の男》がその作品に性欲を反映させていないかと言えば否で、どこかで反映させているだろう(≒その作品の18禁イラストは存在するだろう)。だが、その比重も人によって違うだろうし、相当数は性欲より感性の近似でこれらの作品を好んでいるのではないか、というのが筆者の霊感である。

もし上記仮説が成り立つのだとしたら、萌え絵を気持ち悪いとして攻撃している人が、MtFトランスなどのセクシュアル・マイノリティを公然と嫌悪するヘイターと同様の存在して再定義されることもあり得る、というのが筆者の見立てである。トランス排除フェミニズム(TERF)などの存在を見ても、アドヴォケイトとヘイターは当人が思っているよりずっと近い。メジャー例でロジックが破綻していることに必死で手当てしなければ、そのような転回がいつ起こっても、不思議ではないのではなかろうか。

(2019/10/24)