メモ - 弱者にやさしく人間味のない社会/肌のぬくもりの感じられる素朴な差別
最近、哲学者の千葉雅也氏がサイゼリヤについて語っていたツイートが「炎上」状態になっていた。
サイゼリヤに来たら、番号を記入した紙を渡す形式になっていた。ライス大盛りに一つの記号列が割り当てられている。ひどいと思った。世界は本当に寂しいところになった。これでいいと本気で思っているんですか、本当のところはどうなんですか、と叫びたくなった。 2022-07-05 12:56:36
ものすごく卑近な言い方にすれば、無味乾燥な記号にすることで本来それを指す言葉が持っていた豊潤さを消している、人間味であるとか詩的感性の剝奪である、というようなことであろう。コンテキスト等についてアンフェアにならないように紹介しておけば、togetterと氏のアカウントの直接の発言も参照されたい。
今回は、氏の発言がなぜ「炎上」状態になったかについて私見および他の方のご意見をメモとして残しておく。今回の内容は、私以外の方が語った内容も多く含むのだが、千葉氏はカジュアルに人をブロックしていくので、既に氏にブロックされていると公言している人以外は、あえて典拠を明示せずに話をさせていただく(なお私はかなり昔にリプライ等も一切なしでいつの間にかブロックされていた)。
弱者の包摂(inclusion)とユニバーサルサービス
togetterにもまとめられているが、サイゼリヤの数字記入型の発注システムは、「聴覚障害の方には助かる」というバリアフリーの一環としての評価や、日本語も英語もイタリア語も分からない外国人にとっては助かるシステムである、という評価が多かった。氏が情緒がないとしてケチをつけている他のものでは、プラスチックのコップは「子連れにやさしい店」になるために導入されるものだし、ノンアルコールビールを置くのは事故の被害者や遺族が生まれるのを未然に防ぐための措置であり、かつこれは運転しなければ選ぶ必要のないオプションでしかない。
なぜサイゼリヤのような大手チェーンがこのような方向に行くかと言えば、大手になるほど多くの顧客を相手にする薄利多売に近づき、それによって顧客層に庶民やマイノリティを多く含むようになり、ユニバーサルサービスとしての性質を強めるからである。
ユニバーサルサービス、すなわち「誰しもが享受可能であるべきいわゆる《人権》に近い所のサービス」というのは、基本的には《能力》が高いことを前提とすることができない。身体障害や視聴覚障害の方でも使いやすい、確認の取りやすいものを求められる。様々な知的レベルの人を包摂しようとすれば、文章は平易であることが求められ、間違いがないよう明瞭さが求められるし、(その国の)公用語を解する(これも《能力》である)ことのできない人のことを考えればピクトグラムや、あるいは無味乾燥な数字でも意思疎通できることが優先される場面もある。現代ではメリトクラシーが"正しい"とされるが、一方で《能力》が低い人を包摂できるユニバーサルサービス――英語のfoolproofも若干違うが大筋で似た概念だろう――も求められている、というのは常識的で穏当な理解だろう。
こういったユニバーサル化は、「お前らのために特別に対処してやっているんだぞ」というスティグマを避けるためもあって、マジョリティもマイノリティも区別なく同じように使えるものが好ましいとされる。その典型はカラーユニバーサルデザインで、色覚異常の人もそうでない人も同じ絵で不便がないような配色にしよう、文字の強調は色を変えるだけでなく太字にしたり縁取りを入れれば間違いがない(屋外で赤インクが退色して消えるのを防ぐことにもなる)、といったことが推奨される。こうしてマジョリティとマイノリティの間で分け隔てなく同じサービスが提供されることになる。
マイノリティの包摂とマジョリティの疎外
千葉氏が「効率化のために人間を疎外している」1と主張する要素は、私から見るとユニバーサルサービスのためにやっていることにしか見えない。私の目から見ると、氏の主張は「弱者に配慮したら、強者たる私が疎外された」と言っているように見えるのだ。
いや、実際それはそうなのだろう。どんな言語の話者にも対応できる抽象化・記号化を行えば、そこからは特定の言語に特有の詩的感性が失われる。脆く儚く静かに楽しむべきものは、子供を自由に遊ばせられる空間の中に置いておくことは難しい。視覚障害者に配慮すれば美的感性が許さなくても点字ブロックを敷設すべきろう2。
多様な人を包摂するには、各人固有の感性の平均値ないし最大公約数のようなものを導入せざるを得ない場面があるし、そのような場面では「平均値であるがゆえにどんな個人の人間性からも離れたもの」が出来てしまうのはやむを得ないところがある。もちろん、それは特定の個人ならばマジョリティからも離れているし、マイノリティからも離れている。どの言語にも依存しない記号的表現は、どの言語の詩的感性からも遠いのは、氏が言う通りであろう。
それを踏まえ、なお「あれは私の人間的感性を疎外している」と言うこともできるだろう。賢しい《良識》ある人は差別者扱いされるのを恐れてそれを表立って言わないだけである。ただ、そういった賢しさから離れて、「生活の中で普通に自分から」そういう言葉を発する人もいるだろう。ユニバーサルサービスを良しとする賢しらな《良識》から名づければ、党派性に汚染されて先鋭化していない、肌のぬくもりの感じられる素朴な差別とでも言うべきだろうか。
「マイノリティへの配慮のためにマジョリティが疎外されている」という素朴な生活実感的差別は、それこそトランプ支持者などの間でもよく聞かれた話であった。今回、露悪系論壇の中でも、永観堂雁琳が千葉氏の発言に親和的で、メンヘラ.jpをやっていて根が包摂寄りの論者である小山(狂)が千葉発言に批判的なのは、両者のスタンスがマジョリティの疎外とマイノリティの包摂のどちらに重きを置いているかの違いとして表れたものではないかと思う。
ドライな包摂と人間味のあるハラスメント
もう一つ興味深かったのは、セクハラなどハラスメントは、しばしば文脈を共有する人の間で行われるウェットな「人間味のある」「本音の」コミュニケーションの中から出てくる、という指摘である。
多くの人を不快感を感じないように包摂して社会を作っていくには、個人の美的感性などはある程度押し殺して美醜評価などは口にしないことが必要になる。マイノリティを包摂できる社会を作るには、コミュニケーションはなるべくドライなものにとどめ、個人の美的感性などウェットな人間性はある程度は疎外しなければならい。
もちろん、敢えて多少の不愉快は甘受しても個人の美的感性を重視すべきだという、肌のぬくもりの感じられる素朴なルッキズムを主張する立場もあり得るだろう。フェミニストの間でも女性の感性の自由な発露として美を主張して良いとする立場と、生まれつきの影響する美醜の評価は隠して疎外すべきだという立場が分かれているくらいである。
ただ、いずれにしても、「人間性の疎外」という概念が錦の御旗となり「日常生活の非人間的な情報管理はいけない」と無条件に教えられる世の中であるようには思えない。個人情報保護のために待合室の人を「36番さん」と呼ぶことは、個人情報が守られる方が人間的であるという発想を持つ人に支えられているのであり、名前で呼ぶことが人間的だというある人の感性を一方的に押し付けていいものでもないだろう(そこを肌のぬくもりの感じられる素朴なエゴイズムで押し通すこともできるかもしれないが)。
ただまあ、正直に言えば、哲学を研究し教える立場ならば、この程度の「疎外」概念そのもの、ないし疎外概念の周辺のコンテキストが変化していることくらいは、きちんと最先端にアップデートしておいて貰いたいものである(疎外の定義を勉強しろ云々と言ってもいいが、その路線を取るならばマルクスの時代から掘り返したカビの生えた疎外概念を現代企業のユニバーサルサービスを測る物差しにするには機能が足りないことを認識すべきだろう)、とは思ってしまった。言葉、概念、コンテキストといったものの専門家なのだろうから、もう少し専門家らしい最先端で語ってほしいものである。
<2022/07/06>
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「美観に配慮したダメな点字ブロック」の例はしばしばある ↩︎