メモ - 社会学内部からの社会学批判

twitterでは社会学批判が喧しいが、当然ながら社会学内部からも同様の批判はある。それをメモ代わりにまとめておく。

太郎丸博:査読文化の欠如

「社会学者からの社会学批判」として昨今のインターネットSNSで最も引用されているのは、2009年の太郎丸博氏のブログ記事「阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望」であろう。彼の主張を端的に表す部分を抜き書きすると下のあたりだろう。

「最後に日本の社会学に対する危惧を一つ述べておきます。日本の社会学の特徴は、アカデミズムの軽視だと思います。すなわち、学会報告や学会誌を軽視しているということです。学会発表もせず、学会誌に論文を投稿もせず、それでも社会学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができるのが、日本社会学の実情です。」

「アカデミズムを軽視し、本に好き勝手なことを書くことを理想とするようになります。研究そのものから降りてしまい、研究成果をほとんど出さない人も多数あらわれます。」

氏の主張は、

というようなものである。このブログ記事は、「査読を受けるのは若手であって偉くなったら受けない」と取れる発言をした千田氏や、査読システムについて理解していなかった東大社会学の博士学生?らの発言があるたびに掘り返された。

村瀬洋一:定量的メソドロジーの欠如

立教大学の村瀬洋一氏は日本の社会学研究の中でも国際的に評価の高い「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)に参加するなど計量社会学のアクティブな研究者だが、氏による2021秋学期「計量社会学」の講義資料には、以下のような形で日本の社会学についての問題提起が書かれている。

「多くの[日本の]社会学は、測定や分析に失敗しているので、あやしげな質的調査や、直感での分析、構築主義などの解釈や印象批評に逃げてしまっている。」

「分析法なしのいい加減な研究は、社会学の信用を落とし、学問に対する負の貢献となってしまう。」

「このような低レベルな学問から脱却することは、社会科学全体の緊急の課題である。」

「米国社会学の雑誌は、7割が計量の論文である。……米国や国際的な社会学会では、質的調査は既に流行が過ぎ、適切な分析法の開発に失敗したため評価は低い。」

途中で「質的調査も、問題探索の段階では意義がある」としているのは、量的な調査を行うにもどんな項目を測定するべきか事前に完全に知ることは難しいため、まずはインタビューなどで検討すべき項目を洗い出すときに役に立つからである。予備調査段階で質的調査を行い、しかる後に量的調査によってその是非を検討することで研究が完遂できる、というのが氏の考え方である1

しかしながら氏は同時に、日本の社会学界隈では質的調査という予備調査の段階だけで研究を終わらせてしまい、調査者の主観・感想レベルに過ぎないものを「結論」として堂々と発表してしまうことが多く、他分野の研究者から信頼を失い袋叩きにされている現状を危惧している。

この手の社会を対象とする調査の数理解析については、コンピュータが高速化した21世紀に、疫学、実証系経済学、政治学、政府の社会統計処理、果ては民間のマーケティングまで飛躍的に手法が進歩している。ツイッターにもこれらの学問分野の学生から教授までかなりの数がおり、社会学の統計や因果推論が雑な論文が彼らの視界に入ると、問答無用で首を狩られることになる。

また心の動きを数値として取り出すなどの作業は心理学など共通する部分があり、言語化が困難な感覚までいかに数値・量として取り出し再現・検証可能なパラダイムに落とし込むかが研究者の腕の見せ所だが、心理学でも特に社会心理学では再現性の危機に直面しているのも事実である。質的研究はこの「再現するか否か」という以前のころで止まっているので、より深刻である。

日本学術振興会の見方

日本学術振興会では平成22年に「人文学・社会科学の国際化について」という調査を行っている。

「[日本の社会学研究者は]Google Scholar の検索数でさえ、ゼロの数値の人が非常に多い。 会長経験者といえども、ゼロの人が何人かいる。……現在50歳代で、世間で非常によく知られている社会学者(No.99 と No.101)についても言える」

「日本社会学会は、日本の社会学が他の隣接する学問分野と比べて、国際化のレベルにおいて大きく立ち後れているという認識を明確に持っている。」

「なぜ日本の社会学の国際化は遅れているのか。なぜ、そのレベルは低いのか。これは難しい問題である」

これは太郎丸氏や村瀬氏の危惧とほぼ軌を一にするものである。単に査読付き論文を書かないというだけでなく、外国では計量のほうが信頼され論文の7割が計量になったにも関わらず、計量が出来ないのでレベルの低い論考を単著や国内誌に出してお茶を濁しているとも言える。先に引用した「レベルは低い」はあくまで「国際化のレベルが低い」という意味合いではあるが、外国の社会学の計量重視の流れに全くついて行っていないという意味で、そのままの意味で日本の社会学は「レベルが低い」と読み替えてもさして問題ない。

社会学批判への弁護には「一部の低レベルな社会学者が問題」という論がよく持ち出されるが、現実は「日本の社会学者は一部だけが最新の手法にキャッチアップできているが、多くは現代の学問としては厳しい低いレベルに留まっている」というほうが実態に近いのだろう。若手でちゃんと学んでいる人はいいが、教員に教える能力がなかったりすると悲惨な縮小再生産が行われている場合もツイッターから垣間見える。

前述の調査報告書では、社会学が各地の地域社会に根差しているという点をもって「日本社会を研究しようとしたり日本に留学しようとする外国の研究者や学生が、日本語を習得しないで、英語だけの授業に出て英語だけでレポートや論文を書いても構わないような「国際化」で良いのか」といった疑問があるので国際化が進んでいないともしているが、だからといって国内で査読が厳しく行われていたり計量重視の流れにキャッチアップしているわけではないので、「内輪のコミュニティでレベルの低いことをやっている」という誹りから免れるわけではない。

また、言語や文化など地域固有の要素があっても、慎重に行えば国際比較は可能である。例えばツイッターでは心理学のメタアナリシスで「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」というものがよく紹介されるが、google scholarでcross-cultural comparisonという言葉に様々なジャンルをつければ、心理学法学教育学などは普通にそのような研究が出てくるし、教育の国際比較であるPISAなども慎重に翻訳して国際比較可能なようにして進められている。

そもそも社会学、ジェンダー研究でも、欧州基本人権庁の主導により行われた“Survey on women’s well-being and safety in Europe”の調査票・調査手法を踏襲して比較可能なように日本で実施した例などもあり、「文化や言語が違うから」というのは英文誌への投稿の少なさを擁護できるほどの理由にはならない。少なくとも、英文誌に国際比較を趣旨とする/国際比較が可能な質のデータを備えた論文を投稿していない社会学者は、いけしゃあしゃあと「日本社会は欧米社会に比べ……」などといった出羽守しぐさをするのは学術的な倫理として許されないだろう。

「抗議表明学」事件(Grievance studies affair)

質的研究がレベルが低いので放置できないという意見は、外国の非社会学者の間でも見られる。アメリカのある論壇グループは、社会学の中でも彼らが「抗議表明学」(Grievance studies)2と総称するアイデンティティ系研究、すなわちジェンダー社会学やカルチュラル・スタディーズが学問の体をなしていないとして、ソーカル事件を参考に学会誌に偽論文を投稿して査読に通るかどうかを試した

偽論文はすべてフォーマットや単語選択等でフェミニズムを装った内容であったが、本家ソーカル事件同様に語義を意図的に混乱して使うなど「読めばナンセンスとわかる」作りであった。一例を挙げれば、内容はヒトラー「我が闘争」の一部を用語改変以外ほぼそのまま、タイトルも「我らが闘争は我が闘争」(Our Struggle Is My Struggle)とする等である。これが実際そうであることは、この「実験」の進行中に先に出版された論文について、第三者である@RealPeerReviewが要約部分だけで異常性に気づき論壇グループの予定より早期に発覚したことでも裏付けられる。

結果、社会学一般の理論や方法論を扱う雑誌(Sociological Theory、Qualitative Inquiry)や、スポーツ関連2誌とエスニシティ系2誌はいずれも偽論文を通さなかったが、ジェンダー研究誌は12の雑誌に投稿して4誌が掲載、2誌が査読通過、発表時点で査読中・改稿中が4誌、はっきりと掲載拒否となったのは2誌であった。

ジェンダー社会学系の研究は、もはや英文の査読付き雑誌ですらまともに学問的言論空間をなしていないのではないか、というのが彼らの主張である。またこの結果は、「質的研究の中にも良いものがあり、それにしか出来ないことがある」という主張に対し、その質的研究としてのレベルすら低いという意味で、冷水を浴びせかけるものである。

なお、私自身は男女平等を目指し様々な研究を見ており、ジェンダー系の研究でもまともなものはあると言うことは付しておきたい。ただしそのような研究は社会学系の質的研究から拾うことは少なく、社会学でも参照するのは量的研究が主で、良く引用するClaudia Goldinの"A Grand Gender Convergence: Its Last Chapter"3はAmerican Economic Reviewという経済学系の雑誌に掲載されている。結婚に関する意識の論文なども社会心理学系の雑誌に載っていることが多く、ジェンダー系の質的研究専門誌よりそちらを参照したほうが実のあるデータを見ることができる。

<2021/11/07>


  1. 質的調査で仮説を作り、それを量的に検証する、というモデルは、個人的には戦前からある伝統的な見方や、戦後の見田宗介など「主流派」的な見方のように思える。 ↩︎

  2. 当初「不平申し立て研究」と訳していたが、「抗議表明学」のほうが座りがいいのでこちらに変えた。 ↩︎

  3. Goldin, C. (2014). A grand gender convergence: Its last chapter. American Economic Review, 104(4), 1091-1119. ↩︎