メモ - 「性的消費」「性的目線」論は女性と性的少数者に対する抑圧だ。そう思いませんか、小宮友根先生?

最近、ある下着会社の広告が「男性目線的である」として批判され、「女性担当者であればそんなことは起きない」等と言われていた。ところが、蓋を開けてみれば担当者は女性であったという。これに類する案件は数多く起きており、「男性目線的である」として叩かれた作品が実は女性イラストレーターのものであった、というのは日常茶飯事レベルになっている。

私はこれを全く不思議と思わない。女性のコケティッシュさが好きな女性というのは全然珍しい存在ではなく、むしろ多くの女性がうっすらとそうである、という印象さえ受ける。「性的消費」「男性目線」表現を規制するということは、女性のそういった側面をも抑圧することになり、女性に対するバッシングとなるだろう。

この手の話になると理論フェミニズムでは「男性目線を内在化させ~」等という説明がなされるが、私はそうは思わない。女性どうしでベタベタ体を触りあっているということは珍しくないが、あれは「男性目線を内在化」としてやっているという説明に説得力はないと思う。

そもそも論として、LGBTのうちL、B、Tは原理的に「女性に対する性的目線を向ける(元)女性」という存在を内包する。「女性をコケティッシュに描く/性的目線で見る表現」を規制したならば、流れ弾でそういった性的少数者の表現を抑圧することになるのは自明だろう。

この点については小宮友根氏には整合性のある説明を求めたい。というのも、彼は「性的目線」表現を批判しつつ、同時にトランス排除フェミニズムも性的少数者への抑圧であるとして批判しているからである。「性的少数者は当然原理的に女性に対する性的目線を持ちうる、ゆえに《女性に対する性的目線》批判を表現論でやるとそれは必然的に女性に性的目線を向ける性的少数者の女性に対する抑圧となる」という点について、彼は矛盾した態度をとっている。どういう結論を出すか、白黒つけてもらわねばならないだろう。

<2020/11/03>