メモ - 「共感」という言葉の語義のすれ違い

ネット界隈の、特に男女間で、「共感」の定義のずれが話題になることがある。辞書で「共感」を引くと、以下のような言葉が出てくる。

他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。「共感を覚える」「共感を呼ぶ」「彼の主張に共感する」 ――コトバンク

用例の「共感を覚える」「共感を呼ぶ」等は、「もともと同じ立場ゆえに同じ感情を覚える」に近い意味合いであり、例えば「共感を呼ぶスピーチ」などという用例を考えれば、共感を持ってもらうために相手に合わせる努力をするのは話し手の役割という印象を受ける。ツイッター界隈で話題になる(主に女性コミュニティで使われている)「共感」の用法は、これとは異なる。

これうちの旦那に昔聞いたら、私が「疲れてる」事に対して「俺も疲れてる」と言う事が「共感」だと思ってたんだって!!!!∑(゚Д゚)ぎゃぁーーーーーーーーー!どーなってんだぁぁぁぁぁぁtweet

どうしたらいいのか、なんでこうなったかは自分が一番よくわかってる。ただ黙っていてもいいから聞いて欲しいって思っただけ。tweet

女は共感の生き物。叱咤激励もアドバイスも批判も傷つくだけ。tweet

「共感」のうちこういった意味合いは、カウンセリング用語で言う「共感的理解」に相当し、聞き手であるカウンセラーの側が話し手の感情を理解するために努力するという関係になっている。

「共感的理解」とは相手そのものを理解することです。子供への「傾聴」や「受容」等を通し,相手の考え,立場,個性,全てを受け入れようとする,カウンセリングの基盤になるものです。子供の状況にもよりますが,共感的理解を意識した支援を行う際にして避けたいのは「評価」や「助言」をすることです。子供にとって,家族に理解してもらうくらい安心することはありません。言葉と,その言葉の裏にある本当に伝えたいことまでを感じ取ろうとする姿勢を,大切にしたいものです。――宮城県総合教育センター(強調は原文ママ)

「共感を呼ぶ」等の用例では、感情の同調を引き起こすために努力を要するのは話し手の側であり、「共感的理解」の意味合いでは、努力を要するのは聞き手の側である。後者の意味を期待して「共感」という言葉を使っている人は、前者の意味で取られると面食らうのだろう。まあ、「共感」という字面だけ見ると感情を同調させるという意味しかないのでどちが努力を要するかは定義されていないのが曖昧なのだが、概念の初出であるドイツ語の"Einfühlungsvermögen"(英語に書き直すと"one-feeling-able-to")まで戻ってもどっちともとれる感のある言葉である。

誤解なき言い方

叱咤でも激励でもアドバイスでも批判でもなく、ただ聞いて、話し手が苦悩していることを受け入れて慰めてほしい――聞き手が努力を要するこれは、「よしよしする」と呼べば誰にでも誤解なく伝わる。ただ、その言い方はあまりにもあけすけすぎて、さすがに使いたがらないのであろう。女性も「女は共感の生き物」と言えば格好がつくが、「女はよしよししてもらいたい生き物」とはさすがに自分では言い出さないだろう。

男が共感を求めるとき

以前にこの語義のずれを議論していた際、「女はよしよししてもらいたい生き物」はさすがに女性に対して失礼だろうというバランス感覚が働き、男もよしよししてもらいたい時はあるのではないか、という話になった。そして発見されたのが、男の武勇伝語り――言い換えると、おっさんがキャバクラでキャバ嬢相手にやっている自慢話の類がそれに該当するということであった。この武勇伝や自慢話の類は、「叱咤でも激励でもアドバイスでも批判でもなく、ただ聞いて、自分の感情を受け入れてほしい」という意味においてまさに共感的理解を相手に求めていると言える。「私の苦労を分かってくれ」ということを求めている点では、男女変わるところがない。

共感を求められる負担

北条かや(ライター)が『キャバ嬢の社会学』で、キャバ嬢は「感情労働」だ、と定義している。これはネットのフェミニズムの間では浸透しつつある概念ではあるが、これは実のところ援用しやすい。聞き手側が努力を要する「共感的理解」は聞き手にとっては疲れることで、カウンセラーもキャバ嬢も金をとってやっている。はっきり言って聞かされるのは鬱陶しい類のことである。上司の自慢話を聞かされるのは、性別を問わずうざったいものであろう。「共感を求める」「共感的理解を求める」というのは本質的にそういうものである、ということはご理解頂けるだろう。

これに対するカウンターも実は女性側から出てきている。漫画家の瀧波ユカリのツイートで「自分の機嫌は自分で直す」という言い回しが発明され、今やツイッター界隈では人口に膾炙しつつある概念となっているが、誰かに負担をかけないと感情を落ち着かせられないのは未熟で、自分の機嫌を自分で取れるのが自立した大人だ、というニュアンスでこの言葉が使われることが多いように思う。「よしよしする」では失礼な感はぬぐえないが、「自分の機嫌は自分で取ろう」なら失礼な感じは全然しないので、上手い言い回しを発明したものである。

(2020/08/21)