「金持ちは悪である」というナイーブな道徳

 「金持ちは悪」という道徳は、なんとなく多くの人に信じられているが、この道徳はかなり以前から反駁されている。その反駁の具体論を、ニーチェの(一番分かりやすいとされる)「道徳の系譜」からさっくりと引いてくることにしよう。

 キリスト教的道徳論においては、基本的には「金持ちは悪だ」ということになっている。そういった道徳が広く支持されている(いた)ことは、「神曲」「ヴェニスの商人」といった文学作品や、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような第三者的な論評にしばしば描かれるのでいまさら言うことではないだろう。ニーチェは、そのような道徳がなぜ存在するのかという点について疑問を投げかける。

 金を持つことは悪だとする考え方はキリスト教に限らず、仏教や犬儒学派でも見られることである。仏教や犬儒学派は悩みからの解放や自由な精神の獲得といったことが目的となっており、金に対する執着心がある限り「金が欲しい」「金を持っている人は羨ましい」「金を失ったらどうしよう」と悩み、精神がそこに束縛されて自由でなくなるので、金への執着心を捨て、悩みから解放されて自由な精神を取り戻そうと考える。これらの宗教哲学での「金儲けはよくない」は、あくまで「金儲けに執着することは自分自身にとってよくない」であり、自己本位の考え方である。仏教や犬儒学派の考えでは、金への執着を捨てれば金持ちへの嫉妬心で心苦しいことはなくなると説く。世の中には傍目にはどうでもいいものを集めているコレクターがいるが、我々がそういった人を眺めるような視線で、悟った人は金持ちを見ることになる。

 一方でキリスト教的道徳での金儲け否定は位相が異なり、金持ちは罪であって他者によって裁かれるべき存在だと定義している。ここでニーチェが問題にするのは「なぜ他人に強制するのか」という点である。仏教や犬儒学派は自己本位の考えで金への執着を捨てよと説いているので、ニーチェの批判対象ではない。彼はあくまでキリスト教などで「他人が金持ちなのは悪いことだ」と断じる態度を問題にしている。そして彼はそれが嫉妬が原因だ、と言う。嫉妬の別表現であるような道徳では、現実世界での自己実現を諦め、自己実現を果たした者を「あいつは死後裁きにあう」という妄想で補填しようとする。自分の本当の欲望を抑圧して「世界が間違っている」「死後の世界で逆転する」と陰謀論を撒き散らす、嫉妬の婉曲で卑屈な表現である“奴隷道徳”であると説く。

 彼の思惟の終着点は「人はなぜ生きるのか」というような動機にまつわる話であり、今回の話はその枝葉末節にすぎないのだが、ナイーブに「金持ちは悪」と信じている人がいれば、それは100年前に反駁されているということをここで提示しておく。

(2014/05/09)