医療システムの現実と分類:あなたはどれが好みですか?

このページは、これ書いておくかなーという項目をメモ的にダラダラ並べていった結果、特に結論ができていないまま放置されています。よってまともな出典がありません。

 医療に対する関心は万国共通であり、日本も例外ではない。よりよい医療制度を求めていく中では、外国との比較もしばしば行われる。その中には、日本の医療が外国に比べ優れているという意見もあれば、劣っているという意見もある。はたして、日本の医療制度は世界的に見て良いのだろうか、悪いのだろうか?

 この状況を突き詰めていくと「ある面では優れているが、ある面では劣っている」と記述することが適切で、優れている点と劣っている点はトレードオフの関係になりやすい構造となっていることが浮かび上がる。本稿では、その構造について世界各国の事例を参照しつつ大まかに概観し、どのようなバランスにするかが日本人の好みに合うかについて検討し、日本人の求める医療を現実に可能な範囲で実現する方法について考えていく。

第一節 医療と医療費の構造を探る

医療のトレードオフ構造

「速い」「安い」「上手い」は鼎立できない

 本稿では、まず最初に医療の構造について記述することから始める。冒頭で医療にはトレードオフが存在すると述べたが、その基本的なトレードオフ関係を集約したとき、「速い」「安い」「上手い」は鼎立できない、という言い方がされることがある。この場合、「速い」はアクセス性、「安い」は患者負担、「上手い」は医療の質に相当する。アクセス性をもう少し具体的に定義すれば、医療資源(この場合、病院や医療器械のみならず、医者や看護士も医療資源として扱う)にどれだけ短時間で接触できるかとする指標である。これらが鼎立できないとは、基本的には「安くて速いが、下手」「安くて上手いが、遅い」「速くて上手いが、高い」のいずれかの選択肢しかないという意味である。

 もちろん医療技術は時間とともに進歩するものであるから、時代を隔ててみれば全面的な改良がなされていてトレードオフになっていない場合もあろう。ここでは便宜的な前提として、同時代の先進国では同じ質の医療を提供する医療資源のコストはほぼ同額であるという前提を置くことにする。

 日本において「速い」「上手い」のトレードオフ関係が取りざたされるようになったのは大野病院産科医逮捕事件割りばし死事件(および大淀病院事件)の後に発生した救急医療の崩壊に関する議論である。これらの裁判では「治せないなら受け入れるな」と解釈しうる判決が出るのだが、結果として、救急医療は「上手く」なければ受けられないという規制が加わり、救急医療や産科を置くことができる病院は減り、たらいまわし問題という形で「速さ」が損なわれたのである。もちろん多くの病院に多くの夜勤医と診察設備を貼付ければ「上手くて速い」状態を作ることはできるが、そのコストは「安い」を損なうことになる。

医療資源を誰のどんな病気に提供するか

 国による医療保険がある国でも、保険適用になる治療とそうでない治療がある。これはコストパフォーマンスを保つ為には必要なことであるのだが、同時に政治的に「治療されるべき病気とされなくてもいい病気がある」と宣言しているに等しい。治療されるべき病気なら保険でのサポートが篤い方が良いに決まっているので、保険適用範囲を狭めて自分に集中してほしいところだが、一方で運悪くサポート範囲外になればたまったものではない。ここにも、トレードオフ関係が存在する。

「安い」医療の現実

 英国のNHSでは医療は完全に無料である。また、北欧のいくつかの国で、医療費が定額であるような医療システムが提供されている[要出典]。一見すると医療が無制限に受けられるような気がするし、この点で英国や北欧の医療は日本に比べ優れている、福祉に篤いという主張がなされることがあるが、実際には日本など患者負担が定率である国の人が医療無料を含む定額医療の国に行って医療サービスを受けようとすると、いくつかの点で「不便」という印象を与えることが多い。その原因は医療費システムの違いによる速い、安い、上手いのバランスの相違である。そのバランスがいかなるものであるか、定額医療国に置ける医療システムのおさらいをしつつ不便さを感じる事例を見ていこう。

 定額医療国では、基本的には年度始めに国家予算で総医療費が決定され、年度内はその医療費をやりくりして使うことになる[要出典]。「一定の税金を支払えば無制限に医療が受けられる」などと勘違いされやすい伝えられ方がされることが多いが、実態としては一定の金額をあらかじめ払っておくと、その範囲内でやりくりして全ての患者を診るシステムである。医療支出が無制限ではなく枠が決まっている以上、そのようなシステムにせざるを得ないのである。

 そのやりくりを行う役として、「かかりつけ医」という低コストで診察を行い患者のスクリーニングを行う役目の医者が置かれ、すべての患者はまず指定の「かかりつけ医」を受診するよう求められる。ここで言う「かかりつけ医」は制度的な物であり、慣習的あるいは任意契約に基づく物ではない。基本的に、診察が行われていない場合には、まずはかかりつけ医を通す必要がある。

 日本人が「かかりつけ医」にかかってまず面食らうのは、かかりつけ医が必要な医療を提供していないと感じることである。例えば風邪やインフルエンザでかかりつけ医を受診した場合、簡単な診察の後「帰って体を暖かくしてください」と言われ、実質的に医療が受けられないことがある[要出典]。かかりつけ医の役割はあくまでやりくりであって、患者の必要とする医療を提供することではないからである。仮に患者にとって必要であっても、医療費のやりくりの上で優先順位が低ければ医療は提供されない。また、かかりつけ医を低コストにする為に検査機器が貧弱であることは、金がかからない反面、見落としや誤診が増えるというコストを支払う必要がある[要出典]。このあたりは「安い」と「上手い」のトレードオフや、軽症と重症のトレードオフ関係が成立しているのだが、詳細な議論は後に行う。

 また、いざかかりつけ医に重病の可能性があると指摘されると、その後の診療は月単位で待たされるような極めてアクセス性の悪い病院を利用しなければならない。その待ち時間は、早ければ数週間程度に収まるが、ひどい時には半年から翌年まで待たされると言うこともある1。アクセス性の悪さは致命的な場合にさえある。「適切なタイミングで効果的な医療が施されれば死を回避できた75歳未満の人の死亡率」の調査では、定額制医療を採用する英国や北欧諸国が軒並み低位に沈んでいる2。需要に応じて必要経費を請求する仕組みではない以上、どうしてもこうなってしまうのである。

 また、医療費の制限が定額で厳しいわりに誰でも利用できてしまうため、提供される(日本の感覚なら保険適用される)範囲が下も上も狭くなっている傾向がある。加減については上述の通り風邪くらいでは(重篤なインフルエンザになる可能性もあるにもかかわらず)かかりつけ医で突き返されてしまうし、一方で上限も切られやすいため、医療を受けるために海外に渡航する件数も日本では考えられないほど多く、「メディカル・ツーリスム」という名前まで与えられているほどである3

 これら医療が無料または定額である国の医療を見ていくと、医療が典型的な「共有地の悲劇」問題を引き起こしていると推定できる。'''どんなに見た目上の患者負担がなかろうとも、そこには必ず医療費の実体が存在し、病院も医者の数も制限がある'''。これが共有地の悲劇における資源の制限の問題に相当する。利用に制限がない場合は患者は先着順に医療資源を食いつぶし、医療費が無くなった時点で病院は活動を停止する。「かかりつけ医」制度によるスクリーニングはこれを防ぐために行われるのだが、かかりつけ医は医療資源利用をコントロールするために、患者が必要と思った医療をしばしば拒否する。大病院でしか提供されないような高額な医療リソースへのアクセス性は政治的な決定に依存し、人々に取って本当に必要なものを自動調整するシステム=市場は放棄されている。医療リソースの配分は、日本では患者と求めと医師・看護師の数に応じて現場で判断されるが、定額医療国ではお上がケチケチと提供するものを我慢して待って共有せざるを得ないのである。患者が多いからと言って、その需要が供給に反映されるには、議会での必要性や予算に関する議論があり、増税を議論しなければならないため、機動性は高いとはいえないだろう。 

 定額医療国ではこれらの結果として、端的に言えば支払いが安いなりに安っぽい医療が強制されるという実情がある。またスクリーニング作業にかかるコストのためにアクセス性が悪化している。日本では「ほどほどの金を払えば、短時間のうちになかなかの医療が受けられる」可能性が高く、それに慣れてしまった人が定額医療国に行くと、安っぽい上になかなか受診できない定額医療に憤慨する人が多いのが実情である。

完全な自由診療の場合

 アメリカでは、今政権から国民皆保険的なシステム(民間保険への加入扶助)が始まったが、特に低所得の人に対する扶助(メディケア・メディケイド)を除けば、基本的には全て自由診療であるような仕組みが採用されている。保険の中身については支払いはリスクに応じて、受取は定額から定率までと多種多様な選択肢があるが、いずれにしても国家的医療扶助がない国(例えば日本)の人が行った場合に「高い」「不便」という印象を与えることが多かった。その理由の一つは、保険に再分配性が存在しないことである。民間保険はあくまで''支払われる医療費の期待値に応じて保険料を設定する''ものであって、医療サービスを享受する人の所得は考慮しないからである。このため、庶民は医療を受けにくいという状況は保険の有無にかかわらずそのまま残る。二つ目の理由は、民間保険は多くの場合リスクに応じた保険料額が設定されているということである。頻繁に病気にかかる場合、あるいは慢性病にかかった場合は、保険料が高騰して事実上保険による医療費扶助は得られなくなる。国家的医療費扶助制度ではない、普通の意味での「保険」は、あくまで確率論的に訪れる突然の事故や病気よる損失のピークを常時定額の支払いで均す物であって、確実に来ると分かっている慢性病や加齢障害に対してはなんら扶助の効果を発揮しないのである。

 これらの問題に対する対処として国民皆保険制度の導入が企図されたが、実際にはメディケイドにかからない程度の低所得者に対する保険加入の扶助という形で実装されることになった。公的資金注入とボーナスの問題などで人々から身勝手と見なされていたAIGなどの保険会社の商品を税金で購入するという形態となったため、「金融業界は身勝手てゴネ得を狙っている」と不信感を持っている人々の反発を買う結果となった。個人的な意見ではあるが、この実情については、選挙公約の実現を焦り過ぎ、後述するような「あるべき医療」の議論をないがしろにした結果であるように思われる。低所得者には、前述の通りメディケア・メディケイドといった仕組みが用意されているが、この制度のカバー率は人口の10%超程度である[要出典]。

日本のシステム

 日本のシステムは所得に応じて定額の保険料を支払って定率(70%)の患者負担となるシステムである。このようなシステムは世界でも一般的なシステムの一つであり、カナダ(80%)などが採用している[要出典]。急性期患者の救命率を見る限りこのシステムを採用する国は上位に並んでおり、優れたシステムであるように思われる。ただし、不測の変動(リスク)はすべて国にストレスがかかるようになっており、支払いの増大時はまず財政悪化として記録される。政府財政に負担を与えるので一見悪いことのようにも思えるが、国は最も巨大なリスク引き受け組織であるから、健康問題について国がリスク引き受けるのは必ずしも悪いとは言えない。しかし、リスクが単なる確率論的なものではない場合には、この前提は崩れる。例えば日本では高齢化によって支える人と支えられる人のバランスが過去に比べ大幅に悪化しているが、これは恒常的な変化であり、国債残高は増え続けている4

 現在の日本の医療は「医は仁術」という名目で医者を縛り医療機関への保険支払を渋ることである程度成り立たせているというところがあるが、ある程度以上医療機関への支払いを渋ると立ち去り型の医者不足が起きる懸念はある。また、医者が善処義務を負っていることで常に最善の処置が受けられる(上手い)反面、実際に患者が支払いできなくなるまで医療の質をコントロールできない(高い)ことは時たま問題として挙げられることはある。現在は、患者自身が自己意思を表明可能な状態で請ける医療の内容をコントロールすることはできるようになってきてはいるが[出典なし]、認知症などになり患者自身の意思決定が難しい場合は、家族の世間体などもありあまり医療の質のコントロールが行き届かない状況にあるように思われる[出典なし]

医療費はいかなるものであるべきか?

 医療制度を設計する上では、もちろん安くて早くて上手ければいいのが、実際には現実の制限があり、常にトレードオフ関係のある労力投入対象から選択しなければならない。従って、国民自身がどのような医療を選択するか、という問題にかかっている。医療経済をシステムとして語る者や医療システムを設計する政治家は、有権者に可能な選択肢とそれを選んだときの見込みを知らせることはできるが、現実の制限を超えるものを作ることはできないし、有権者が可能な選択肢を示された上で選ぶ方が健全だろうというのが私見である。ここでは、医療システムを設計する上で考慮すべき論点をいくつか並べ、どれがよいという断言をなるべく避けて列挙するにとどめたい。

医療費を政治決定する上での倫理的課題

医療と介護は「降ってわいた災難」か

 医療費や介護費をわざわざ支払う発想が薄く、政府が極めて手厚い保険を扶助して、さらに法律で価格まで低く縛り付けた上で、やっと成立しているような状況である[出典なし]。なぜこんなことになっているのだろうか。

 個人的な考えだが――健康なのが「当然あるべき“現状”」であり、病気という「降ってわいた災難」をケアする医療や介護は、災害救助と同じように無条件無償で“現状”復帰させるプロセスである、という日本人の発想が垣間見えるように思われる。

 それが「人生の中で当然負うべき負担」であるのならば、扶助しないか、あるいは再分配による人生の支出循環の平均化のみが行われるだろう。

 そうしたほうが介護疲れによる心中なども防げると筆者は考えるのだが、いかがだろうか。

健康の不可侵性――命の格差は認められるか

 普通の人権意識から言えば、命や健康はなににもまして不可侵であり、「何人たりとも」「可能な限り」守られるべきである、命に差があってはならないという生存権的な建前が存在する。しかし、「何人たりとも」「可能な限り」という縛りは、無制限のコストを要求する物であって、現実のコストの壁を前にしたとき、なにがしかのトレードオフを迫られることになる。その際のトレードオフでどのような選択をすべきか、主に倫理的観点から列挙を行う。

再分配性

 医療の存在は、金を払えば=それだけの労働コストを投入すれば、命が守られるかどうかに差が生じる事態を現実とする。富豪と貧乏人の間に命の格差が生まれてしまうのである。しかし、働く気のない貧乏人であっても生きたいと申し立てれば他人を服従させ医療の労働コストを支払わせることができる、などということは果たして正義と言えるのだろうか。言い換えれば、労働、経済、所有などの自由もまた基本的人権であり、生存権と自由権という基本的人権の間にコンフリクトが生じる

 多くの国では「命はある程度は平等であるべき」として、定率医療の国であれ定額医療の国であれ、所得に応じた徴収を行い、所得と無関係に支出する。両者ともに医療費の徴収額における累進性が再分配の根幹をなしており、定率医療であれ定額医療であれ、基本的に受けるサービスは確率論的に平等である。定率医療の場合は自己負担が残るので自己負担の支払い余力によって多少累進制が落ちるが、ここは累進性の根幹ではない[要出典]。また、徴収の累進性とは別に、患者支出のある国では低所得者をケアするための特別の仕組みが存在する。日本であれば生活保護の一部に含まれる医療扶助であり、アメリカであればメディケイドなどがそれにあたる。

 日本においては、所得の大小に関わらず働いてコミュニティに貢献する努力を重視する傾向にあるので、障害者であるとか介護のために仕事を辞めざるを得なかったという場合を除けば、フリーライダーを忌避する傾向がある。その忌避傾向の一つの表れが所得税の医療費控除である。働くという意思を示していて、かつ医療費がかかった場合、これは再分配を受けるに値するという考え方である。こういった考え方をもって日本人は失業者や非労働者に厳しいと見なす見方があるが、筆者の知る限りにおいては、英仏などでも生活保護に完全依存しているようなフリーライダーに強い嫌悪感を持っている人々が相当数いるのは確かである英国では「親子2代で子供手当で生活するために4人以上の子を産む」といった生活保護の拡大再生産をしている層が存在し、生活扶助で贅沢をしている人々を侮蔑する言葉としてchavという言葉ができているほどである。し、アメリカの国民皆保険騒動でもフリーライダーに対する嫌悪が見られる。スウェーデンやデンマークなどワークフェア型の国では失業者は強制的に厳しい職業訓練所に入れられるため、この問題は直接には噴出していないが、これらの国は同時に、外国人の失業者は別であり国に帰るべきだという福祉国家主義的傾向を見せている。どこでどうバランスを取るかは国民の好み次第というところだろう。

最大多数の最大幸福か、マイノリティも救うべきか

 また、生きる権利に差はないとするのであれば、稀な重病はサポートされるべきであり、実際日本国内では、少数だが重篤な病気には特定疾患治療研究事業(難病支援)のサポートが入る。一方で、コストパフォーマンスを重視すべきであるならば、公的投資は誰でもかかる病気の治療を安くすることに注力すべきであって、量産効果や知的財産商売のスピルアウトが期待できない奇病・難病は無視したほうが「最大多数の最大幸福」に近づくであろう。難病の治療は受益者があまりに少ないので、これに医療資源を投入することは市場的にも民主主義的にも“非合理”である。しかし、多数優位の選択を取った場合、政府はコストパフォーマンスの悪い難病患者は生きなくてよい、と宣言しているに等しい。この問題は、アメリカの国民皆保険問題で、限られた財源をどこに投入するかという選択に対し'''命に線引きをするのか'''と広く問われることとなった。公共事業などでは「受益者が偏っているものなどやめてしまえ」と言うことは可能だが、医療に関しては、命の不可侵性があるかぎり、そう単純には行かないのである。

どの程度までの延命を認めるべきか

 健康問題、特に命に関わる問題については、医療費を出し惜しみすること自体が許されないというバイアスは確実に存在する。軽い病気や慢性病の場合には患者がコストを考えて医療を受ける余地があるが、救急の場合などはまずは伺いをたてている暇はないので標準で最善の医療が提供されることになる。裁判例や行政の建前からすれば、「医療サービスを受けながら医療費を払えなかったので病院から追い出す」は許されても「払えそうになかったので医療サービスを提供しなかった」は許されないのである。また、自分の病気であればコストに応じて選択することは可能だが、家族――特に痴呆や意識不明になって本人の意思による選択ができなくなった場合も、倫理観や世間体の都合上、手を抜いて安い医療を提供することができない。そして、医療が進歩するにつれ、既知の最善の医療は、医療の提供する幸福度の上昇にそぐわないほど無制限に医療費が増大するようになっている。そのため、日本でも、「ちょっと変な病気にかかれば医療費がいくらかかるか分からない」と恐れられ、それが貯蓄の動機の一つになっている。

 そう言った問題を避ける有効な方法は、国がある程度のラインで保険適用の増大を断ち切ってしまうことである。より寿命を延ばし幸福度を上げる方法は知っているが、金がないからやりません、ここで線を引きます――そう宣言することである。ただしこの方法は、再分配を伴う公的医療の制度設計では大きなコンフリクトを生む。患者自身が完全に自己負担で医療サービスを受けているのであれば命の線引きを回避でき、金がある人の命はよりサポートされる。健康は所得や財産に関わらず不可侵であるべきだとの立場を政府自らが壊すことになる。これを認めるかどうかは、政治的、集団的意思決定の問題だろう。

競争によって医療の質は向上するが、コストが下がるとは限らない

 医療費の増大に対処するにあたり、市場主義的な発想からは、医療にコストがかかるというのなら競争によって下げればいいという意見が出てくることがある。だが、現実の医療技術の開発現場では、競争は質の向上をまず生み、コストが下がるほうに必ずしも向かうわけではない。これは前述の「健康は不可侵であり、払える限り良質の医療を受けたい」という(司法や行政が暗黙に仮定する)患者側の志向が原因である。自分が致命的な病気にかかれば、努力はできる限り寿命の延長のための努力に支払われるべきであって、安く仕上げるために命が危険に晒されるのは困る、と感じてしまうことだろう。患者がそのような物を好む傾向がある限り、市場競争による生産の改善は、それを満足させる方向へと向かう。    この問題は、コストのかかる慢性病・長期入院の場合には回避される可能性がある。例えば人工透析の必要がある患者では、多くが患者自身も政府同様に医療費の増大に悩まされているからである。この場合には、患者と政府の間で「寿命の延長よりもコストの削減を優先する」という合意が成立する可能性はあるだろう。他の糖尿病などのケアに関しても同様である。痴呆に関しては、自身が痴呆になったときどうして欲しいかを健常なときに問えば、比較的「迷惑をかけないように死なせてほしい」という答えが多く出る。このように、個別の病気についてコストを下げる方向への合意の可能性があるが、それをどのようにシステマティックに取り込むかは、個別の病気について検討を行ったときに明らかになるだろう。

「コストパフォーマンス」はどこにあるか?

 保険適用に線引きを加えることとして、政府はどのような医療を推奨すべきだろうか。経営的な考えからすればコストパフォーマンスの最適化をすればいいという考えがあるかもしれないが、医療においてそれは決して容易なことではない。例えば、同じ病気を治療する手術について、10万円で成功確率が80%の術式と100万円で95%の術式があったとする。それぞれの術式はで失敗する割合は5回に1回と20回に1回なのでパフォーマンスには4倍の差があり、コストは10倍の差がある。従って前者の方が「コストパフォーマンス」としては良好である。しかし、もし手術に失敗したら命が危ないとしたら、5回に1回「も」失敗することは、容認できるだろうか?国にとっては5回に1回というのはただの確率かもしれないが、治療を受ける患者自身にすれば、5回に1回失敗するということをどう感じるだろうか?本当に消費材と同じように考えられるのであろうか?結局のところ、健康に対する不可侵性の意識があるならば、コストパフォーマンスの評価自体に社会的合意が必要であり、不可侵性を加味した「命の価格設定」が必要になるのである。不可侵性をどこまで重視するかは、難しい政治的合意が必要になるだろう。

既存の提案は、どの程度まで政治的批判に耐えられるか?

医療提供者を拡大する

 医療の一人当たりのコスト減とサービス拡大を両立する方法としては、医療提供者を増やすという方法がある。もちろん提供されるサービスの総量が増えるのだから単純に医療費は増大するが、一人当たりの医療費を下げる効果はある。また、医師の人数が少ないことが地方の医療の衰退を招いていることは確かであろう。

 しかし、フルスペックの医師の増員は一筋縄では行かない。まず一つの問題は、医師になることのできる人の枠を拡大すれば、それだけ医師になる関門が下がり、低レベルな医療提供者も受け入れざるを得ないということである。増員支持派は医師を増やせと簡単に言うが、患者の診断は難しい物であり、簡単に育てられる物ではない。例えば、「おなかが痛い」と駆け込んできた患者の腹痛の直接の原因を即座に10は挙げ、数十から百に及ぶ病気を考慮にいれ、あるいは道の病気である可能性も考えつつ、時間と戦いながら治療しなければならないのである。フルスペックの対応能力の必要性を考えれば、医師を中心として医師の手仕事を可能な限りコメディカルに委譲する、医師を中心としたチームが望ましい。また、診断の確実性を考えれば、貧相な診断設備しか持たないかかりつけ医を運用するよりも、最初から大病院を使うか大病院と緊密に連携の取れた出先のかかりつけ医を運用し、

(2010/12/23)


  1. いい統計をさっと見つけられなかったので、大学病院医療情報ネットワークなど信頼できる筋からの転載を行う。九大熱研HOME → 活動報告書 → 2003年度WHO班ここでプライベートクリニックの利用理由について。NHSの病院は確かに無料であるが、待ち時間が長い。我慢できない人や安心のある医療をお金を出して受けようとする人が利用する。この病院について言えば、日本人医師のため自分の意志がちゃんと伝わるという安心を求めて受診している。医療面での貧富の差が生まれてしまっている。実際の医療体験集待ちたくなかったら日本語で大声(これが大切)で,”ばかたれ,俺は痛みで死にそうなんだ.早く治してくれ”と何度も叫ぶことです.@@@結果として、以下のような感想となる イギリスで始めたことやはりただより高い物はない。病気かもしれないと思ったらすぐ日本に戻って病院に行こうと決めている。 ↩︎

  2. E. Nolte and C. M. McKee, Measuring the Health of Nations: Updating an Earlier Analysis, Health Affairs, January/February 2008, 27(1):58–71 参考英語 参考日本語 ↩︎

  3. 斉尾武郎 メディカル・ツーリズム─医療は国境を超える 臨床評論 33巻2号 2006 ↩︎

  4. ただし、筆者はエガートソンの長期停滞モデルを支持しており、国債残高の増大に対しては受け入れるべきで「これが正常状態」であると考えている。 ↩︎