保護欲と糾弾欲の自己満足:オリエンタリズムをやらかすポストコロニアリズム
弱者――社会学・ポスコロ用語でいうところの“権力勾配の劣位にあるマイノリティ”――を“マジョリティ”の中から擁護する言説は世に一定割合溢れている。しかし、それが真にマイノリティ自身の声を代弁・擁護するのではなく、自分たちは弱者を保護しているという自己満足、あるいは強者の不正義を糾弾したという自己満足を得るための行動である、と指摘されることがままある。個人的には「やらない善よりやる偽善」程度には思っているが、偽善が害悪を及ぼすときは別である。自己満足が先に立って《フェイク》を発信し、その《フェイク》がマイノリティを苦しめるようであれば、それは糾弾の対象となるべきである。
この有名な例が映画「ダーウィンの悪夢」である。この映画では、ビクトリア湖で輸出商品としてナイルパーチを放流して生態系破壊を引き起こし、あまつさえナイルパーチを輸出した代金で武器を買い、それが現地に貧困や混乱をもたらしている、という筋の内容である。
この映画は魚の不買運動などを引き起こしたこともあり、その内容が現地の取材を受けた人々からもタンザニア大統領からも事実を歪めていると抗議を受けることになった。大統領には現地とは別の対外的イメージ戦略等の思惑があるため分析対象から外し、現地の映画に対する批評を丹念に集めたレポート1は以下のように結論している。
ムワンザの人々は,けっして細部に固執して映画の全体的なテーマや意図を理解していないのではなく,むしろこの映画が伝えようとしている明確なメッセージを正しく読み解いた上で,なぜこれらのローカルで複雑な問題群が,ひとつの映画において単一の物語としてまとめあげられているのかにこそ疑問を呈しているのではないかと考えるようになった。
……おそらく大統領らによる「扇動」がなくとも,この映画は国民感情を傷つけるものであった。なぜなら,この映画は「グローバル化の縮図」を端的に示すものであったとしても,ムワンザの多くの住民が,自らの生きる「現実の縮図」と考えるものからはかけ離れているからである。
……わたしには「声なき人々」を受動的かつ平板に描き,地域の複雑性に照らして検討すべき問題群をひとまとめにして,遍在するグローバル化の悲劇として提示することが,価値あることには思えない。これまで検討してきたように,現地の人々は便利な言葉こそ使わなくても,グローバル化の 実体も,そのような物語を生産し,喧伝する西欧人の罪悪感や驕りにも気づいている。悲劇的なアフリカや,その鏡像としての豊かなアフリカという語り口が,しばしば政治的に利用されたり,西欧人による不可解な運動をひき起こし,結局,歓迎せざる結果を招くことに無自覚なのは,けっしてアフリカの人々ではないのである。
この映画に描かれるビクトリア湖畔の住人は、先進国の人々の保護欲や糾弾欲といった自己満足に沿うように作られた《マイノリティ像》である。先進国の人間が都合のいいように外国像を作るという意味で、一種のオリエンタリズムと言ってよい。映画は反植民地主義、ポストコロニアリズムを気取って作られているが、その実オリエンタリズムであるし、商業主義的に顧客に合わせて作ったと言い訳したところで植民地主義的搾取そのものなのであるから、映画制作側・想定顧客の判断基準からしても糾弾されるべきだろう。
もう一度冒頭の言を繰り返すことになるが、「やらない善よりやる偽善」とは思うが、偽善のために人々を苦しめるなら、それはやらないほうが良い。“正義の執行”が自己目的化してフェイクでいいから悪を作る、というようなことがあってはならない。それは世界中の多くの国でおとり捜査が禁止されているのと同じような次元でそうあるべきだと考える。
(2017/10/15)
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小川さやか「批評:ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」の舞台から」『アフリカレポート』45号、アジア経済研究所、2007年9月。 ↩︎