従業員が社員になる日:EBOとリスクの分配
一昔前、従業員自身が株主となることが賞賛され、一部では「革命的」とまで評されていたが、これは古くから従業員による会社買取; EBOという名前で存在が知られているものでもあるし、NHKのドキュメントやドラマで何回か取り上げられているテーマである。また、近年高額所得経営者の報酬としてよく上がっていたストックオプションもこれに近いものがある。実のところ私自身も「株主重視をやめろ!」という意見を見るたびに「じゃあEBOすれば?」と回答してきた。半分挑発だが、もう半分は会社のリスク分配の構造について考えてもらいたかったからである。本稿では、EBOを題材に、会社におけるリスク分配の構造を論ずる。
株主と従業員のリスク分配の基本的構造
株式会社とは、出資者が出資額に応じた有限責任の範囲で会社の方針を意見し、それによって運営される組織である。この出資者は俗に株主、法律的には社員とも言う。俗に言う社員は法的には従業員であって、労働契約によって業務に従い、責任を負わず労働を売って対価を得ている存在である。ここで言う責任とは、債権者への支払いで出資した金を失うこと、株券が紙くずになるリスクを負うことである。その責任を負う代償として、利益が上がれば配当を得ることができる。一方で、従業員にはこういった責任はない。仮にある従業員のせいで赤字になったとしても、会社が倒産するのでなければ、解雇や賃下げに対して法律的に抵抗することが認められてさえいる。
別の言い方をすれば、ある営利活動に対し、従業員はリスクを最低限とした上で契約に或る定額の対価を受け取っており、株主はそのリスクを全面的に負っている。一般的に言えばリスクは売り物であって、保険屋のように、リスクは(統計的に)定額の対価を支払って誰かに押し付けることが出来る。通常の営利企業においては、従業員は経営リスクを株主に買い取ってもらい労働に対する安定した所得を持ち、一方で株主は損失をこうむる可能性もあるが(しばしば不労の)所得を得る。このような関係になっている。
株主がいかなるリスクを負っているか体験してもらうには株主になってもらうのが一番早いのだが、そもそも、世の大半の人は今現在株主である。年金や退職金の運用方法を考えれば、年率数%もの運用約束を果たすには、直接・間接に投資するしかない。しかし世の暗黙の圧力として「年金の運用に穴を開けたら責任を取らせてやる」というものがある。だから年金の運用担当は必死で配当を搾り取る。「配当は搾取だ」「退職金や年金に穴を開けるな」これを同時に言っているとしたら、その人は鏡に映った自分に吠える犬に等しい。
EBOによって従業員と社員が一致するということは、従業員自身が経営リスクを引き受けるということである。従業員の誰かが損失を出したとすれば、それは従業員の賃金にそのまま反映されるようになる。あるいは会社が倒産して出資金が消えるかもしれない。これが「株主に搾取されない会社」のもうひとつの側面である。冒頭のレスにあるメガネ屋でも、自らの失敗はダイレクトに自らの賃金に跳ね返る構造であったし、通常の会社で赤字になるような決算であれば、それがダイレクトに従業員の所得に反映される。NHKのドラマの解説で取り上げられている米ユナイテッド航空の例では、会社は倒産にさえ追い込まれ、従業員=社員はその責任を負った。その代わり、そこには不労所得による「搾取」は存在しない。これに比較的近いシステムが、[日本型雇用を誰が殺したのか(下))で「固定給+変動給」として例示したものである。
従業員=社員を推奨していた近年の政策
従業員=社員という会社形態は、実は近年推奨されている。代表例が改正会社法(2006年5月1日施行)による株式会社の出資下限撤廃(1円起業)と合同会社の法整備である。1円起業は企業支援=新産業の芽の増加策としての側面を持ち、その場合は基本的に出資者と経営者と従業員が限りなく近いような会社を設立することを支援するものである。合同会社はさらに閉鎖的で、出資者全員の合意を前提とした組織である。
従業員=社員であるような営利法人をコンパクトにしたものが有限責任事業組合(日本版LLP; 2005年8月1日施行)である。詳しくは法律および解説書に譲るとして、この制度の大まかな目標は、自営業者が複数人で組み、同時に有限責任の営利組織として株式会社がもつ利点を与えるシステムである。あくまで組合であって法人格はなく、課税は分配終了時に出資者の利益として1回だけ課税されるので、自営業の集まりとしての側面が強い。もちろん、出資金の範囲で損失をこうむるリスクも負う。
もっとも、このような会社組織や組合は、自らの責任で自由を謳歌できる強者のための制度であるという感は否めない。このような制度を利用できるのは、ゼロから経営資産を築き上げることのできる高い営業能力を持つ人だけである。通常の「会社員」=従業員は、既存の会社に入り会社固有の営業資産を現場で運用することにより利益を上げて対価を受け取っているのであって、ゼロから営業能力を作り上げているわけではない。「ゼロから」というのはとてつもなくハードルが高いのである。
また、LLPや1円起業といった政策が小泉時代に行われていることも一つの特徴かもしれない。従業員が社員であるという発想は、ある意味で共産主義的である。日本版LLPはまさにそれであって、世に「金持ち優遇……」などと言われる小泉政策とは縁遠いもののように見える。しかし、この政策は実に小泉的である。前述の通り、この制度は法律の「有限責任」という言葉どおりの自己責任で自由を謳歌できる強者のための政策だからである。
「搾取のない会社=自己責任社会」と、そのほかの選択肢
このように、従業員=社員というシステムは、多かれ少なかれ新自由主義的な「自己責任」の体現である。NHKのドラマの解説の冒頭部分で「元々英国1980年代、サッチャー政権の国営企業民営化、市場の自由化の流れの中で生み出され、発展してきた手法である」と説明されているが、そのサッチャーは新自由主義政策の嚆矢として有名である。小泉政策が新自由主義的側面を持っていたことは在任中から公言されているし、後に「自己責任」とか呼ばれている。結局のところそれは「自ら株主となってリスクを自ら引き受けよ、そしてリスクに見合った対価を得よ」ということである。その典型がEBOであり、LLPである。経営リスクを直接かぶり、また対価を直接得るという意味では、真の意味での成果主義と言っても過言ではないだろう。
前述の通り、出資者は営業リスクを負っているのであって、出資者と従業員が別であるということは、出資者が従業員にリスクを売り渡し、リスクと引き換えに対価を得ていることに他ならない。従業員=社員となることは、自身が経営リスクを責任持って引き受けるという意味である。[日本型雇用を誰が殺したのか(中))[(下)|日本型雇用を誰が殺したのか(下))の後半で述べている「経営リスクの分配」とは、まさにこのことを指している。高度成長期には経営リスクは社会的に無視されるほどの小ささであったが、近年はそれが誰の目にも見える存在になっている。[それが輸出企業のせいだというのなら|内需による産業活性化を本当に達成するには)、高度成長自体がその潜在的リスクをとることで果たされたものである。最近の話題は、どのルートをたどっても、それをどう分配するかという点に行き着く。EBOを「革命的」と呼ぶ人が出るほどには。
私の個人的な希望は、そのリスク分配が「フェアに」選択されるべきだと考えている。それは、リスクの買い手と売り手が明白に定義され、それを理解したうえで選択して欲しいという意味である。選択肢は一つではない。だが、「誰もが必ず得をする選択」というものも存在しない。一見リスクがなくなるようで、必ず別のところに表れる。もし自分が必ず得をする選択ががあるとしても、それは別の人への負担となって現れる。既存社員の雇用が実は非正規労働者に支えられていたように。
配当は経営リスクの取引の結果であって搾取と断言できるものではない。配当を払うのが嫌なら、従業員が会社を買ってリスクを自ら引き受けるべきである。利益が上がれば今以上に儲かり、赤字になれば賃金が今以上に減る。不安定になるが、株主に支払っていた定額の対価はなくなる。それがフェアな取引である。何らかの方法でそれを回避したいのであれば――たとえば国がそれを引き受けるのなら増税せざるを得ないだろうし、どの道を選んでもどこかで再びリスク分配と受け手・買い手の問題に直面することになろう。
補足
ここまでの節について、小泉・竹中政策の弁護をしたいのかといわれれば、半分はそうだし、半分はそうでない。1990年代、経済成長の鈍化によって経営リスクが顕在化し、「自分だけは損をしたくない」という日本人各々によって、貸し渋りやリストラなどが横行していった。彼はその状況に対して、「損をするリスクをとれば、その分対価が得られる」という回答を出し、かなり直球な政策を出してきた。そのひとつが従業員=社員という会社を設立する法制度である。配当批判という現在の状況は、そのリスクテイカーがリスクに見合った対価を受け取ることを「搾取」と呼んでいる側面がある。
別にそれはそれで構わない。そういうのが嫌いなら選ばないという選択肢もあるし、私はそれを否定しない。ただし、選ばなかったからといってリスクが消えるわけではない。リスクが賃下げ、リストラ、有利子負債、下請けいじめ、倒産といった形で再び現れるだけである。全部を解決するには経済のパイを拡大する以外に方法がない。
ともあれ、近年の経済危機でその発想もご破算となり、政権交代が起きる見込みである。ただ、政権が交代したからといって、その政策が経済全体を拡大するものでなければ、何をしてもリスクの付け替えに過ぎないというフレームワークから逃れることは出来ない。「再分配」によっておそらく「庶民」の中にも損得が入り混じることだろう。労働再規制によって労働市場から脚切りを受ける弱者が出るかもしれない。セーフティネットの構築のために税を負担する「庶民」が出てくるかもしれない。公共事業の削減により失業者が増えるかもしれない。
別にそれは、そういう選択だとして納得していればそれでいいのである。私が危惧しているのは、後からそれを「約束と違う」と批判する人が出ないかということである。約束が何であるか理解していなかったにも関わらず。不幸にしてもしそういう人が出る事態になるのなら、私はきっと民主党を今回のような形で弁護するだろう。
私が願うのは、「どんな政策がどんな効果を持ち、どんな副作用があるか」をなるべく確実に予測し、それが提示され、理解したうえで有権者が選択するという姿である。それがフェアな民主主義だと思っている。ゆえに、データに基づいた分析を重視し、各論併記を各所で多用している。しかし、残念ながら現状は理解が達成されていないと感じている。その不満がこのサイトを書く動機でもある。
私は、自民党の過去の政策に対しても、また民主党の将来の政策に対しても、それに対して「裏切られた」と思う人が出るのなら、それは悲しいことだと感じている。政策のインフォームド・コンセントが達成されそれに基づく選択がされるのであれば、どの党が政権についても構わないし、フェアな選択だと考えている(マイノリティとしての若年層の発言権の弱さは別として)。また、それが達成されない限りは、いつまでたっても右往左往するのであろうし、現状達成されていないと考えている。
とりあえず、「経済のパイを拡大すれば誰も損はしない」という当たり前の夢物語と、経済の拡大なしに再分配するには「庶民」に負担が出る「痛みを伴う構造改革」にならざるを得ないという統計的事実を踏まえたうえでのリスク分配を、各々分けて理解したうえで選択して欲しいととは願う次第である。
(2009/8/29)