ポリティカル・コレクトネスの進展と未整理の矛盾
近年、煽情的な女性アイコンは、女性を男性の性・支配の対象として非人間的に取り扱うものであり、けしからんという意見をよく見るようになった。まるで物のように消費するということから「性的消費」と呼ばれているものである。このような意見発露のターゲットとしてレースクイーンやミスコンを中止させる動きがあるほか、日本ではいわゆる「萌え絵」がこのターゲットにされていてしばしば騒動になっている。直近ではNHKがキズナアイというvtuberキャラクターを起用して騒動が起きた。
一方で、女は煽情的と言われようが自分の好きなファッションをすることができる、ブルカやウィンプル1をかぶるよう強制されるべきではない、ポルノも自主選択できる2、という別方向からのフェミニズムもある。この方向性からのフェミニズムの代表はマドンナ、レディ・ガガ、エマ・ワトソンなどの米国芸能人だろう。彼女らの衣装を「肌を見せて煽情的だ」などと言ったらアメリカでは反フェミニズム、反ポリティカル・コレクトネスであるとしてボコボコに叩かれるだろう。今回問題になったvtuberは自らの見た目に自信をもって周りをねじ伏せていくようなエマ・ワトソンに近い性格付けの部分や、ファッキュー発言をいとわないなどマドンナ的な部分もあり、少なくとも「おしとやかで従順で男のいいなりになる」といったロールからは程遠いキャラクターである。
煽情的な格好をしていたとして、フェミニズムが推奨しているのか反対しているのかは見た目では区別がつかず、「女性が主体的に選んだか否か」で判断され、意に添わず露出させられることもなければ、意に添わずブルカをかぶせられることもないならば妥当とされる。この判断基準を架空のキャラクターに当てはめた場合、必然的に「させられる」になるので、この文脈に沿えば男が作っている・見ている作品では露出を下げろ、と主張することになる(架空のキャラクターに主体性の基準を当てはめることの是非はここでは論じないものとする)。
ただ近年、この切り分け方が使いにくい領域が出てきている。AKB48は「AKiBa」の略で秋葉原にいるようなオタクを狙った、いわゆる「地下アイドル」的な発祥を持つが、現在は両性別・全年齢的な人気を持つ。初音ミクは当初は「オタクの気持ち悪い性欲の表れ」などとくさす人が珍しくなかったが、今では男女比は半々に近く、特に20代男性と女子中高生に人気があることが知られる3。vtuberの認知度は若いほど高く、10~20代では男女比はおおむね3:2程度であり、やはり女子中高生に一定の人気がある4。つまりこれらは、「性欲を持った男性が消費するコンテンツ」と「ジェンダーロールや社会的コードを踏み越えて自己表現する女性の象徴」としての両方の側面を同時に持っており、切り分けが困難である。
これは女性の側でも意見が分かるところであり、キズナアイ騒動の発端は「性的けしからん」とする側の意見表明である一方、伊藤和子氏のように自信の表れとしてのフェミニズムとしてとらえる意見もある5。女性は女性を代弁できるというのは思い違いだろうし、少なくともこの件に関して当事者性を持てるのは自分自身の感情のみである。このような存在をどう扱っていくか、少なくとも「フェミニズム」「女性の人権」すべてを代弁できる懐の深さを持った意見はまだないように見える。見ている限りは女性ファンの存在を否定しようとするか、あるいは女性ファンがいるのは受け入れたうえで「実は性的ではなかった」と翻すかどちらかの意見が多いようだ。
「男の子のお人形遊びはジェンダーロールからの解放で喜ぶべきだが、お人形を性的消費しているので許されない」
例えば男の子はサッカーや野球、女の子はお人形遊びというのは、幼少期におけるジェンダーロールの刷り込みとされる6ことから、「ジェンダーロールを捨てて男の子も女の子も一緒にお人形遊びをしよう」というようなことはジェンダー開放の観点から言われることがある。ただ、その観点から昨今の初音ミクやvtuberを考えると、「男女ともに同じお人形(である初音ミクやキズナアイ)で遊んでいる」といってさほど支障があるとは思えない。実際、これをもって「このレベルでのジェンダーロールからの解放はすでに成った(ので他のレベルに主眼を移すべき)」と読み取れる主張もある7。一方で先に述べたようにに、初音ミクやキズナアイは女性(に見えるキャラクター)を性的に扱っており許しがたいという意見も同時にフェミニズムを名乗る方向から聞こえてくる。
まとめれば、「フェミニズム」の意見として、男の子がジェンダーロールから解放されてお人形遊びをするのは好ましいという意見と、男の子がお人形遊びをすると性欲が投射されていて気持ち悪くやめてほしいという、同時には実現しがたい意見が出てきてしまっている状況となっている。現在のところ、これについて人権侵害を伴う副作用が生じる意見を除けば、上手く両立できるよう回避した意見は見ない。
雑感
このような矛盾・問題も、フェミニズムの進展を表しているともいえる。男女が別のジェンダーロールに従い別の趣味を持っていた時代は「あんなのは女が見るものだ、男が見るものじゃない」などといった垣根があったが、今やそれが取り払われたからこそ上述のような事態が生じたのだと言えよう。だが同時に、理論の批判的検討、練りの足りなさも感じるものである。フェミニズムの主張が達成されればこのような自家撞着が発生することは容易に予測できることであり、学問と名乗る立場がこれを練っていなかったのは準備不足とみられても致し方あるまい。
このような練りの不足は節々に散在している。例えばデイヴィッド・ライマー(ブレンダと呼ばれた少年)の件では、幼少時に強制的に性転換手術を受けさせられ女として育てられている(元)少年が、どうしてもお人形遊びに興味が持てなかったと述懐している。これは性自認後天論に大きなダメージを与えたが、一方で外性器の有無にかかわらず脳の中の性別が存在し遊びの好みなどのジェンダーに影響を与えるとしてトランスジェンダー擁護に一定の役割を果たしている8。ただ同時に、「男の子に性欲のない純粋なお人形遊びを求める」といったことがデイヴィッド・ライマーの一件のような人権侵害になりうるという懸念も同時に示している。こういったトランスジェンダーとフェミニズムの対立は、お茶の水女子大学が身体が男性で性自認が女性のトランスジェンダーを受け入れると発表した際にやや問題になっていた7。この類の問題は「イスラムで女にブルカをかぶらせる文化の多様性の保護 vs 女性解放」といった構図が欧州で極右勢力の伸長を促しているなど、さまざまで局面で見られる。
こういった問題は、アイデンティティ・ポリティックスが様々なアイデンティティに無秩序に手を付けながら相互の矛盾を放置したまま来ていていることにより生じている側面はあろう。ポリティカル・コレクトネスは内部における批判的検討、練りが不足していると筆者には感じられる。矛盾した要請を半ば強制力のあるポリコレに落とし込んでるのが反発される一つの理由になっていて、練りの足りなさが社会学の学問的価値への疑義という形で爆発したように見える、というのが直近の騒動を見ていての霊感である。
(2018/10/09)
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ウィンプルは、中世ヨーロッパにあった女性用頭巾のことで、キリスト教保守社会においてブルカと同様の役割を果たしていた。 ↩︎
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牟田和恵(2001)「実践するフェミニズム」岩波書店 ↩︎
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ascii VOCALOIDはいつから女性人気が高まったのか? 2014年06月19日 ↩︎
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kai-you バーチャルYouTuber、若者の7割「知ってる」 調査にみるその勢い 2018.08.06 ↩︎
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キズナアイから考えること。 2018年10月 7日 ↩︎