質問への回答――「妥当な所得」について考える

当サイトの掲示板にて「再分配ははたして必要なのか」という質問があったので、それについて私の考えを述べる。念のためだが、この話は再分配不要という意見に対して「再分配が必要になる最低限のライン」を示すための原稿で、グレーゾーンについては言及しない方針で書いてますのでよろしくお願いします。

論点1:倫理の上で結果平等は必要か

再分配に関して最初に出てくる主張は「平等は正義だから」という意見ではないかと考える。まずこれについては、本質的に正義ではないことはニーチェが論証している。しかしながら、ニーチェも述べているようにキリスト教道徳として広く存在しているものでもあり、北欧の"Law of Jante"のように平等感を強く主張した価値観が支配的であることもある1。私個人の考えとしては、平等が絶対正義かと言われればニーチェの言うように否、あえて平等と言う価値観を受け入れるかどうかは好みの問題と考える。

次に、「搾取」というコンテキストについて考える。再分配の議論では、「不平等は搾取が原因である」とう主張があるが、「搾取」という言葉は、その背景に「本来ある人に帰属すべき所得が、取引の過程のごまかしで別の人の所得になっているので、本来の所有者に帰属させるべきである」という発想が含まれている。「何らかの理由で所有者の手を離れたものは、本来の所有者に帰属させるべき」という点は、単独で取り出せば否定する人はいないだろう。再分配を否定する側も同じことを論拠に、搾取によって金の本来の持ち主から取られているとか、税金によって云々だと言っている。

さてここで、仮に世界が自給自足する人だけで満たされており、税金も取引も雇用契約も存在しないと考えてみよう。その場合でも、個々人の能力・努力によって生産量の差はついてくると考えられる。この差については、取引がない以上搾取は存在しえず、「本来の所有者に帰属させるべきである」という発想は成り立たない。自給自足する人々が個々人の自発的な意思で物々交換・分業を行ったとしたら、詐欺でもない限りは所有権の移転は正当であって、やはり搾取は存在しない。むしろ再分配否定派のほうが「本来の所有者に帰属させるべき」と言える場面であろう。 「取引の過程で誤魔化されているのではないか」という点については考慮の余地があるが、これは次の論点で述べる。

論点2:「能力や努力に応じた所得」は存在し得るか

ここまでの議論で、個々人の能力・努力によって生産量の差はついてくることを説明した。これを延長して、「世の中の原則は能力主義だ、能力や努力に応じた所得を得るべきだ」というタイプの主張がある。これは一見すると一理あるように見えるが、読点を挟んだ前後をつなげることは正しくない。なぜならば、能力や努力は所得を決定する唯一の要因ではないからである。所得を決定づける要因は今も昔も需給である。知的財産を扱う商売の例を挙げれば、商品を提供している人の能力や努力といったものが変わらかったとしても、市場の形が変わることで所得は大いに変動しうる。能力や努力、あるいは苦労に比例した所得を得るべきであると考えている人にとっては、この事実は違和感の大きいものとなるだろう2。しかしながら、能力、努力、苦労などとは全く関係なく、需給という概念を導入したほうが遥かに事実をよく説明できる、というのが100年前に経済学が成した結論であり、それは今も変わっていない。取引が全く存在しない自給自足の世界なら能力と努力が全てだが、現代は分業の時代であり、それは成り立たない。

ここで、質問された方のご意見を抽出しよう。

庶民が努力や能力で成り上がれるのが中の上まで。上流階級てのは親の地位や財力にも依存するし難しい。とくに貴族制度が堂々と残ってるイギリスではそうなんだ

これはそのまま読むと「極端な格差は相続によって生じる」と読めなくもないが、現代は(情報)流通の改善で市場が大きくなっており、ビリオネアと呼ばれるような屈指のクラスの金持ちは、最近の大企業の創業者が相当数を占めている。このようなビリオネアは、市場の巨大化、言いかえればたくさんの人と繋がることで始めて得られたものであり、無人島にビリオネア100人が上陸したところでビリオネアにふさわしい生産をすることはできないだろう。この点において、超高額所得者に対してある程度の負担を求めることは正当であると考える。

中流と下層って努力が関与できるギリギリの差

について言えば、ある程度事実であり、ある程度はそうではない。筆者としても同意できるところとしては、少なくとも労働集約的な職業である限り個々人のパフォーマンスの差は大きくて5倍程度には収まるという実感はある。しかし、そのような素朴な「能力比例」は現代の知識集約産業の時代にあっては存在できないことは別項に述べた通りである。基本的にWinner-take-all則が働きやすく、能力的には僅差の2位でも収入の差はずっと大きくなる。

また、商品の需給サイクルも速くなっており、「まじめに勤めていれば報われる」という時代でもない。例えば、デジカメの隆盛に伴ってフィルムメーカーのコダックが破綻し、デジカメも大半がスマートフォンに埋め込まれたことでニコン・キヤノン・ソニーなどの当該部門は縮小に動いているが、これらの会社の工場で働く人がいくら真面目に働いていていくらフィルムに関する知識があろうとも、そのままでは大幅な減収は避けられない。

ただし、「需給の勘所を読むのも能力と努力の内」という一段メタに見ての意見については、真っ向から否定する要素はないとは考える。

正常な競争が起きない場面

需給の勘所を読むところまでを認めたとしても、もう少し議論すべき点もある。世の中には正常な競争が起きていない状況というものがあり、そこでは優位な立場のものが必要以上に稼ぐことができる。そういった状況を防ぐのが独占禁止法や反トラスト法といった法律である。不公正な取引は企業どうしの取引でも生じると考えられているのだから、個人と法人の間にも生じうると考えるのは自然なことだろう。労働関係の法律は基本的に雇用側優位という想定で作られている。これは前節で述べた「取引の過程で誤魔化されているのではないか」という発想の一種である。

ただし、労働市場の需給では、雇用者が労働者を抑えつける構図しかないというわけではない。バブル期のように売り手市場では学生を接待するというような事例もあり、逆に1997年以降、会社は窓際社員の首を切って優秀な新入社員を入れたくても、正社員を簡単には首に出来ないのでそれは実現できないという状況となった。簡単に首が切れないようにするのは多くの働く中流の要望であり、それはそれとして正当なものである。しかしながら、その陰で努力・能力の面で窓際社員より優秀と見なされ、かつ働く気があったにも関わらず、有効求人倍率が1を切る環境下で努力や能力に見合った雇用を得られなかった人たちが(ある特定の世代に固まって)いたことも、また否定しえない事実である3。「正社員の地位を得たのは能力と努力の賜物」という意見に対しては、新人を雇う引き換えとして正社員を解雇してはいけないという“法律”は政治運動の賜物であって再分配を求める政治運動と同列の行為だと回答する。

私はこの点は問題だと思っており、これに対処する最善の方法は、まず「働く気がある人全員が能力と努力に応じた収入を得られるようにすること」であると考えている4(これが実現した状態で再分配をするかどうかについては意見しない)。しかし非自発的失業の存在が示すように、現実問題として全員が能力と努力に応じた収入を得られるような状態ではないのは事実であって、これが解決するまでの暫時の処置として、それを手当てして能力と努力に応じた競争ができる土俵に乗せるための再分配が必要である、という意見については賛成する。

論点3:功利主義的な観点で再分配が有効であるとする主張の検討

近年の再分配強化論の中に、「所得が低い人のほうが貯蓄より消費を選ぶ比率が上がるため、デフレの環境下では景気浮揚の手段として再分配が有効であり、再分配は好業績につながり、結局再分配した分は好景気の所得増として返ってくる」とする意見がある。この理屈が定性的には正しいということについて、筆者は否定しない。ただし量の問題はあるので、実効性が多いにある可能性もわずかしかない可能性も否定しない。またこの理屈を受け入れたとしても、デフレが解消して失業率がNAIRUないし自然失業率を下回った場合には、その前提がなくなる。従って、不景気の時以外はこの理屈に基づく再分配は必要ないという結論になる。筆者としては、好景気の時にも再分配すべきかどうかについては意見しないが、少なくとも不景気の時に再分配が意味を持つことについては同意する。

また筆者はベーシックインカムのようなものは全く支持しない。なぜなら、ベーシックインカムは生産と消費を自動的にバランスさせるようなシステムになっていないからである。働こうとする人が減ると、働く人はより多くの負担をしなければならなくなる。負担が大きくなると、それに耐えきれなくなる人が増え、働こうとする人は減る。これにより、ある水準より働く人が減ると、加速度的に働く人が減るようになり、生産量が負の方向に発散する。ベーシックインカムの目的が「誰でも最低限のものは手に入れられるようにすること」なのであるとすれば、ベーシックインカムはそれを保障できる制度でないことは明らかである。北欧型の制度では職業訓練として誰でも給付を受けることが可能ではあるが、あくまで求職者としての立場であり、求人があれば応じるように求められる。

低能はナマポ配って家で寝ていてくれ。迷惑かけるな。

筆者はこの意見には明白に反対である。たとえば行政サービスとして介護補助などはより供給が求められているし、失業者に何もしないままにさせておくよりは、人々が求めることをさせておくほうが明らかに有益である。また実際に、2000年あたりに公共工事削減が政策として打ち出されて以降、土建業界と提携した介護への転職なども政策として推進されている(ただし医療介護特有の問題であまり進まないのではあるが)。実行できていない行政サービスと失業者支援が両立できるほうが効率的なのは明らかである。ただし、これは「金をやるからどんなことでもしろ」と言っているわけではない。例えば同じ200万円を与えるのだとして、妥当な方法は「ただでくれてやる」のでもなく「200万円やるから何でもしろ」と言うのでもなく「正当な時給だが労働時間を少なくする」というワークシェアを実施することである。そうなればより良い職業につきたい人間は空き時間に勝手に勉強するだろうし、また非自発的失業者を見捨てることにもならない。

筆者の意見のまとめ

以上の内容のうち、筆者の意見として提示しているものを抽出して再提示する。 - 現代の超高額所得者は巨大市場という「多数の他人」を必要としており、超高額所得者と「多数の他人」にある程度の再分配を設定することは認める。 - 非自発的失業が存在するような経済システムである限りにおいて、働く気がある人を競争の土俵に乗せるための再分配が必要である、という意見については賛成する。 - 完全競争が実現した状態で再分配をするかどうかについては意見しない。(筆者としては今世紀中に完全競争が実現するなどとは露ほども考えていないが) - 少なくとも不景気・デフレの時に再分配が意味を持ち、能力があり努力できる人にその機会を与えうることについては同意する。 - 好景気・インフレの時にも景気浮揚理由とする再分配すべきかどうかについては意見しない。

上述の「同意する」としている再分配のために中流に負担を求めることについては、最終的な賛否は別として、少なくとも擁護意見を出すことは正当であると考えている。

付記

なお、現在の社会福祉財政において最大の負担は高齢化に伴うものである。かつては団塊世代の4人兄弟の長男が介護の負担を負い、残りの兄弟は負担しなくて済む時代もあった。しかし今は、2人兄弟が親の負担を見る時代であり、「負担しなければいけない人の比率」は必然的に増えている。単純により多くの人に負担を求める必要があるがゆえに中流の負担が増える可能性はかなり高いことは言わなければならない。5

(2014/05/20)


  1. 大本綾 デンマーク人は本当に幸せなのか?住んで初めてわかった「幸福感」の違い 2013年2月28日 ダイヤモンドオンライン ↩︎

  2. あまり知られていないが、マルクスは平等主義者と言うわけではなく、熟練によって生じる生産性の向上(能力・努力による格差)は「効率2倍なら他人の2時間分の仕事をした」と説明できるとして労働価値説上で正当なものとして考えている。彼は労働価値説が適用できない種類の商品の存在に気づいていたが、それを包括した説明は放棄した。この点、“事実をより正確に記述する”という目的を放棄して政治的主張に堕しているので、彼の主張は“経済学”として取り扱ってよい代物ではない。 ↩︎

  3. そもそも論として、完全競争が実現することを前提とした実物的景気循環理論のような理論では非自発的失業は存在せず、人々は(マルクス的な意味も含んで)能力と努力に応じた収入を得ることになっている。裏を返すと、非自発的失業が存在すると言うことがこの理論の前提である完全競争が現実ではない、ということの傍証になっている。 ↩︎

  4. つまり「簡単に首を切れるようにしろ」という意見に諸手を挙げて賛成しているわけではなく、働く気があるならばある会社を辞めたとしてもすぐに別の職場に移れる状態であることを目指すべきである、という意見である。 ↩︎

  5. ただし筆者は、福祉介護にまつわる囚人のジレンマを解消することで、この負担をある程度軽減できるとは考えている。 ↩︎