インフラ構築は40年で寿命を迎える

今の問題が高度成長期にどうだったのか振り返るのリライトです。

恐怖によって作られたインフラは、30年間正しく機能し、40年後に問題を起こす。

洪水と電力不足の恐怖とダム政策

 戦後20年間、日本は常に大水害に襲われる国であった。代表的なものだけをリストしても、枕崎台風、カスリーン台風、南紀豪雨、西日本水害、諫早豪雨、狩野川台風、伊勢湾台風と枚挙にいとまがない。奈良時代以来、日本の行政の歴史は、治水との戦いと言っても良いほどである。

 その戦後の時期に、日本は水害と戦う大きな武器を手に入れた。それがダムである。ダムによって水量を調節することで、豪雨の河川水量を緩和することができるようになり、また渇水期にも十分な水量を送ることができるようになったのである。

 また、ダムは発電という副次的な効果ももたらした。

……

 それが反転するのが1990年代頃の話である。

食糧不足の恐怖と干拓政策

 農産物増産策が農林省の至上命題となったのは、戦中から戦後直後に掛けての時期である。ただでさえ戦時中から戦後闇市時代に掛けての食糧難を経験した上、それから人口が激増するということもあり、まず食料確保は喫緊の課題であった。後々食料輸入が増えて自給率問題が取りざたされるようになるが、まだこの当時は貴重な外貨でなんとか食糧をやりくりし、アメリカからの援助に頼る状態であった。手賀沼・印旛沼、児島湾、八郎潟、諫早湾などの干拓事業はこのような文脈のもとに計画・実施された。また、当時の小作人が人力で耕していた面積を農地改革で分配した。

 後に食料が輸入できるようになってくると干拓の必要性は薄れてくるが、大規模な干拓事業のために動員された事業の慣性は残った。事業のために土地区画を整理し出資を募り働く人を集めたのである。止めるにしても契約不履行および精神面での補償が必要であり、その困難な作業をあえて行おうと言う人はいなかった。諫早地方では諫早豪雨の記憶と農民vs漁師の対立構造が慣性を長続きさせ、事業性とは別に環境問題という観点が導入され反対派が強くなった今なお地元長崎では推進派が強い(この推進派は利権に絡む人というわけではなく、かなり感情的な側面が強いのが実相である)。

住宅不足の恐怖とスギ植林政策

 第二次世界大戦終了時の日本の人口は約7000万人であり*1、加えて都市爆撃の被害により1000万人程度の住居は失われていた。焼け野原に住宅を再構築するのが急務であった時点で巨大な建材需要が生まれた上、戦後のベビーブームで人口爆発が起こったことで、ほとんど破滅的とさえ言える住宅不足の状況が生じた。戦後のかなり長期間にわたって一軒屋がアッパーミドルのステータスシンボルとなり、狭い集合住宅が多くあり続けたのも、この絶対的な住宅不足が根底にある。戦後の総計では6000万人分、今の人口の半分のための住居を建設する必要性に迫られていたと言える。

 戦後の植林計画は、この絶対的住宅不足への対応策という面が大きく、しかもそれは国民がそうあるべしと求め、広葉樹とのバランスや樹齢管理を行おうとする山林家を「利権団体」として糾弾するほどのものであった*2*3*4、ということは覚えておくべきである。戦後十数年間は日本経済の状態は地に落ちており、外国から建材をおいそれと輸入できるとは考えられていなかった。数千万人分の住宅建材を国内で確保しなければならないという要請に迫られた結果、まずその時点で育っていた材木が復興のために出荷され、その後迅速な材木供給を目的として針葉樹が積極的に植えられることになるのである。

 当時国民がスギを植えろと求め、山林家を利権団体であると糾弾したという事実を説明すると、当惑したように「状況が変わったのだから止めればよかったのだ」という答えが返ってくる。しかし、材木は樹齢50年程度に達しないと商品価値が生じないし、樹木の寿命から考えても植林計画が100年単位になることは当たり前である。いま花粉を飛ばしているスギは、当時まさに国民の求めに応じて植えられたものがそろそろ商品価値を持ち始める樹齢に達しつつある、その程度の若い樹である。どうあがいても、スギ花粉症は当時の日本人が後先考えず材木の増産を“正義”として求め、“利権団体”を糾弾した自業が自得となっていることは否定できない。

石油価格高騰の恐怖と原発政策

 世界的に原子力発電所は、オイルショックの直後あたりの時期である1970年代後半から1980年代前半に建設された物が多い。日本でも計画停電が最後に実施されたのがオイルショックの時期であり、原発は石油が手に入らないかもしれない恐怖から逃れるため、発電量を確保するために用いられて来た物である。

 ちなみに、世界中で原発が増えていたのと同時期、日本ではエネルギー国産化を目指して経産省主導の「サンシャイン計画」が実施されていた。この計画は実は多くの再生可能エネルギー技術を育んで来た物で、原発代替電源にしばしば押される太陽光発電や高温岩体発電の基礎を作ってきた。30年経って化石燃料は平均物価比でも当時の4倍以上に高騰し資源量の枯渇も言われて入るが、だがしかし、それでもなお再生可能エネルギーに比べ資源量やコストの問題で勝っている状態にある。

 ここ数年原子力ルネサンスと呼ばれるほど原発関係が活況を呈しているが、これは2008年頃に原油価格の急激な上昇に喘いだ新興国がその恐怖に駆られて始めたものである。二酸化炭素排出権問題もそれを後押しした。もう一つ再生可能エネルギーという選択肢もあるのだが、これは高騰した原油価格よりもなお高いケースが多かったため、そもそもの供給力に不安のある途上国では選択肢にはなかなか入らなかったのである。

現状の社会背景に基づく再生可能エネルギー政策は、30年後に終息させよ

 “今”あたらしいエネルギー政策を考え実行して行くことは構わないだろう。ただ、そこで働く人がいれば、彼らは長期的には“既得権益”にしがみつく“利権”と化し、手段が目的になってしまう時が来る。それを先読みしてあらかじめ“利権”化しないように、その仕事をする人の一生のライフプランを今から責任もって考えなければならないのだ。

Last modified:2011/04/19 18:37:27
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*1 国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集(2009) Ⅰ.人口および人口増加率

*2 速水亨 杜からの言霊 第5回 広葉樹vs 人工林? ARCHITECT 日本建築家協会東海支部 2008年7月 「戦後復興に伴って木材が不足し、国民は国有林にも民有林にも森林伐採を強く求めた。広葉樹林をそのままにしておくことは、国土の有効利用からして、罪悪のように言われた時代であった。一方で、国内の森林から木材を生産できないなら、海外から輸入せよという声も高まった。昭和36年から39年にかけて、木材の関税は引き下げられ、丸太は完全に無税となった。私が林業を志した23年前には、状況は一転していた。針葉樹人工林に対する批判が激しくなり、林業経営者は肩身の狭い思いをした。」

*3 泉桂子 溜める水と使う水 「復興期は帝都復興のための木材供給が水源林の使命になりますが……「量的拡大期」は、いわゆる高度経済成長期で、木材バブルの時代でした。」「『いま造林している針葉樹の成長が早いので、いまたくさん伐っても将来は担保できる』と考えられたのです。」

*4 小林直人 山からのたより 第2回 「大林業家とチビたワラジをはいて歩いている山村民を対照的に映し出して、山林地主を否定してかかった。左翼がかったマスコミ、それに教育された一般国民が、山持ちに対する批判を集中して反山持ちという社会的な世論ができかかってきた」の発言に見られるように、財産保持的乃至伐り惜しみ集団という社会的そしりを肌で感じた4000人は存亡の危機に立たされる。そして、すばやく同じ月のうちに(社)林業経営者協会を結成するのである。