世界市民指向と多文化共生指向の相克

この論考は左派内部のロジックをベースとして書いており、この原稿の執筆の約1年後にスロベニアの左派の哲学者スラボイ・ジジェクが同様の論考を発表しています。原文:Slavoj Zizek: In the Wake of Paris Attacks the Left Must Embrace Its Radical Western Roots November 16, 2015、その抄訳ジジェク「パリ襲撃のあとでこそ左翼は自らの根源的な西洋的出自を受け容れなければならない」

 2015年に入り、シャルリー・エブド誌の風刺画に端を発する問題が世間をにぎわせている。この問題はフランスの不寛容を表していることがあると言われる一方で、問題となったシャルリー・エブド誌はラジカル左派であり排外主義者のルペンをよく攻撃していた。排外主義者を攻撃する左派がなぜ不寛容やヘイトのような扱いをされたのだろうか?ここには左派が避けて通れない深刻な矛盾が背後に潜んでいる。

宗教批判は言論の自由にとって重要なものである

 シャルリー・エブド事件後にまず提起されたのは「言論の自由を守れ」という点である。フランスは革命の歴史的経緯や近代化に至るまでの合理主義確立の歴史から、自由権、宗教に対する批判は第一に守るべきものであると考えられている*1。創造神的なものを信じる傾向の弱い日本人からすれば、進化論を否定するアメリカの宗教右派*2を批判し、創造論を教育の現場から排除することは当然であり、認められるべき権利であると考えるだろう。イスラム教は聖典を絶対視するという点でアメリカの宗教右派と共通した性質があり、進化論を認めずこれを教育することはイスラム法に反するとしている*3。仮にイスラム国家で「クルアーンを馬鹿正直に読んでるやつは非理性的、いい加減進化論を認めろ」と主張した場合、イスラムに対する冒涜(クルアーン批判)で最悪死刑になる可能性がある。仮に宗教に対する批判はヘイトであり揶揄も認められないのだとすれば、進化論否定論への批判も、「フライングスパゲティモンスター」のような滑稽な揶揄もできない。日本でもこのような事態は望まない人のほうが多いのではなかろうか。「宗教批判をするな、ヘイトだ」と言うのは簡単だが、おおよそ簡単に線を引ける問題ではないことは御理解いただけるだろう。

不寛容な信仰にも寛容たれとする矛盾

 上述の進化論を巡る議論では、アメリカの宗教右派は基本的に自らの宗教観を他人が批判する権利自体は認めている。ヨーロッパの市民革命は、その前史としてカトリックを強制する王権とプロテスタントを認めさせたい民衆の対決があり、教会もその果てにたどりついた基本的人権概念を尊重する姿勢を取っている。しかしイスラム教ではこれは別である。イスラム法を奉じ「イスラムを棄教したものは死刑」*4「イスラム批判は死刑相当であり、言論の自由の埒外」*5「男女は同権ではない」といった、不寛容で基本的人権と対立する法体系を持っている。これは名目上の存在だけではなく、実際に人口当たり死刑執行数を見るとイスラム圏は突出して多い*6

 このような教義と対面した時、フランスのように基本的人権を死守すべきと考える人々は尊重するよう明に求め、多文化共生が先だと考える人々は暗にそれを求めるが、これに対してイスラム教徒は、「基本的人権のためにイスラム法を曲げるのは棄教と同じ」と応じてしまう*7。直截な拒否はせずイスラム法の厳密な執行を遅延することもできるが、これは遅延しているだけで、神聖なるクルアーンに由来するイスラム法を基本的人権に則って改定することなどできず、執行遅延による共存を目指す穏健派と言えど、厳密な執行を求める急進派の主張を否定することはできない*8、というのが宗教的な建前である。現実にはイスラム圏においても世俗的な国家は少なくなく、人権主義を取ることが全く不可能というわけではないが、イスラム法は祭政一致の長い歴史の中で民法、刑法と同じ水準の法を宗教令として定めており、これをすべて改定するのは容易ではなく、また一度無政府状態になるとタリバンなどの祭政一致政府が出現しやすいことから見ても、イスラム法の近代法体系への抵抗力は強いといえるだろう*9

 基本的人権を遵守するよう求めれば信仰への迫害と言われ、かといってありのまま受け入れれば他の信仰との共存に齟齬を生じ、信教の自由を尊重しない信教を選ぶ信教の自由、不寛容さに対する寛容を求められているわけで、そもそもの自家撞着が存在する。

解決できない矛盾が生む二重基準

 「基本的人権を尊重し基本的人権を守らないことを教義とする宗教を認める」ことは自家撞着であり、矛盾なく実現することは原理的に不可能である。何を選んでもどこかに問題が生じるため、原則なき妥協で全てが決定していき、あちこちに二重基準が生まれる。

 たとえば、アフリカの一部では、子供のころに女性器の一部を切除ないし縫合する女子割礼と呼ばれる因習が行われている。女子割礼は、先進国であれば親が子の自己選択権を奪って身体を害したことになり、重大な人権侵害として取り扱われ、先進国の女性団体は廃止運動を展開している。しかし、これは途上国の因習に限った話ではない。先進国においてもユダヤ教徒とイスラム教徒は宗教的理由から割礼、包皮切除を行っている。ドイツでは包皮切除手術の失敗による死亡事故から割礼の合法性を問う裁判が行われ、子供の(将来の)自己決定権は親の教育の権利よりも優先し、身体に永久的な傷を残すことは個人の権利の侵害であるとする判決を下した*10。これは「個人の尊重」という現代的人権概念から言えば当たり前の判決であり、ユダヤ教・イスラム教側からの「不寛容」「ヘイト」という抗議に対して「基本的に人権侵害ではあるが、歴史的のある特定宗教に特例として認める」という妥協的な法律で応じることになった。ただ、法理としては「基本的に人権侵害であるが」という点は動かすことができておらず、アフリカの女子割礼の禁止を訴えながら自国の男子割礼の禁止はヘイトであり法理上人権侵害でも黙っているべきという二重基準の採用を余儀なくされている。この問題に関しては正解はいまだ見つからず*11、丸く収まるよう信じて待つしかないというのが現実である。

世界市民とポストコロニアリズムの対立

 このような二重基準が生じるもう一つの理由として、他文化に対する寛容さに二つの異なるアプローチが存在するということが挙げられる。一つはフランス的な、「個人の尊重は人類普遍の価値である」という信念を死守すべき原則とする立場で、基本的人権や自然法といった古典的・啓蒙的なリベラルの価値観を重視する思想である。この立場に立った場合、基本的人権に反するのであればマジョリティとマイノリティとに関わらず非難することになる。もう一つは「まずはそれぞれの文化は尊重されるべきである」という立場であり、ドイツにおける割礼の特別法のようにこちら側を選んだ場合にはある程度の人権侵害には目をつぶるということになる。両者の対立は、社会学・政治学における論争では「コスモポリタン」と「コミュニタリアン」という対置が近いが、あくまで「近い」というだけで、論壇方面では用語の定義はもはや各著者ごとに定義があるようなものであり、日本人の体感的に分かりやすい言葉をアドホックに選べば「個人の尊重は人類普遍の価値である」とする側を「世界市民指向」、コミュニタリアンに近い軸を「ポストコロニアリズム」「地域文化指向」と呼ぶと分かりやすいだろう。あえてこの二つの言葉を選んだことから推察いただけると思うが、この話は右派と左派の対立ではない。この両者は左派どうしの意見対立とも解釈されることがあり、また右派同士の対立とされることもある。

 左派的に解釈した場合、世界市民指向による移民論も地域文化指向による移民論も理想とするところは同じである――全ての人が自発的に基本的人権を尊重するようになること、その中で自由に国境を越え、思想・文化を発露できる状態とすることが目標である。もしそのような状態が具現化したならば、もはや世界市民指向と地域文化指向を区別する意味はない。世界市民指向で重視される基本的人権は理想的状態を維持するために必要なルールである。地域文化指向が推進する多文化共生は、理想的な状態をなるべく早く実現しようという試みであり、両者は理想のための車の両輪と言ってよい。そして、ここまで述べた通り、両者ともに理想と現実の齟齬で苦しんでいる。

 またどちらの潮流も右派的な解釈も可能である。フランスは近代革命の震源地の一つであり、啓蒙主義的な世界市民指向を原則としている。このためイスラム教のうち男女同権に反するような慣習をやめるよう求め、啓蒙思想の枠内で活動するよう強く求めている。シャルリー・エブド事件において信教への批判は権利であり啓蒙的であるという考えを強く打ち出したのもそれが理由である。しかしながら、「まずは今ある宗教を刺激しないようにしよう」という地域文化指向から言えば、それはラジカルすぎ、ポストコロニアリズム側の批判にあるように、啓蒙思想を『進んでいる』として押しつける思想こそが『植民地支配で土人を教育してやる』といった傲り、不寛容であるという批判が起こる。トロツキストの「革命の輸出」(「アラブの春」「カラー革命」も陰謀論通りならこれに類する)や、世界全ての国で基本的人権を武力で担保させようとする「国連軍」「世界の警察」といった機能は、しばしば地域固有のありかたを武力で制圧しているとして「ネオコン的」と批判される。

 一方で、地域文化指向を推進した場合、個人の自由という観念は大幅に制限を受ける。前述した通り、イスラム教を棄教するとイスラム法学的には死刑となる。またイスラム批判もほぼ死刑に等しい肉刑が科されている。イスラム法を厳密に解釈した結果としての女性抑圧や美術文化破壊は「あえてしないことにする」ことはできるが、誰かがすると言った場合正面から反対することは難しい。イスラムは世俗化できない。これはイスラム法学者もイスラム研究者も共通して述べるところである。人は生まれに縛られ、その呪いを受け、近代に至るまでに獲得した基本的人権を一部放棄しなければならなくなる。それを「伝統だから許せ」というのは、かつて右派が取ってきた方法論に他ならない。また、地域文化を守るために共同体を分離して集住すべきという考え方は、オランダなど地域文化指向の国では「寛容」と言われる一方で、フランスのような世界市民指向の国では「移民の隣には住めないという不寛容の典型」とされ、そのような主張をするルペンは極右とされている。ここで注意すべきは、極右のルペンも、オランダなどのコミュニタリアンも、価値相対論を唱えて「先進国も発展途上国もどちらかが優位であることを認める必要はなく、それぞれがほどほどに分かれて住んで認め合うべきだ」という論理自体は変わらないということである。寛容か不寛容か、左派か右派かはただ態度が気に入らないかだけで決まっていると言ってよい。

 「不寛容な伝統宗教を認めるほど寛容であること」にそもそも根源的な矛盾があり、どちらの立場を取っても突っ込みどころ多数なので、結局のところ、無難にやり過ごす方法はこの言説のようにアウトサイダー的な身の振り方をする以外にない、というのが現実である。

 日本の現状は面倒なので触れないことにしよう。一言だけヒントを残せば、日本国憲法は1945年の価値観であり、ポストコロニアリズムの端緒である「アフリカの年」1960年、サイード「オリエンタリズム」1978年より前に書かれたものである。すなわち、日本国憲法は世界市民嗜好であり、地域文化指向は原則論として許されていない。これを頭に入れると、様々な問題を解きやすくなるだろう。

Last modified:2015/01/24 14:19:24
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*1 e.g. http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060209

*2 アメリカで宗教右派とされる人々は主に「各信者が聖書のみを頼りにすべき」という主張を持つプロテスタント(福音派)であり、「聖職者が聖書の正しい解釈を議論できる」とするカトリックでは「旧約聖書での創世記は比喩であり、神が生物を作った方法が進化であった可能性はある」としている。

*3 http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/awr_61.html

*4 ハディースの中でも最上位、クルアーンに次ぐ法源である『サヒーフ・アル=ブハーリー』3017(149 Chapter: Not to punish with Allah's punishmentで検索すると翻訳が読めるはずです)にその記述があり、イスラムが多数派の国ではしばしば執行される。

*5 イスラム批判を行うリベラル運動を立ち上げようとした男に、鞭打ち1000回、それが原因で死んでも致し方なしとする実質死刑が適用されている http://www.cnn.co.jp/world/35058903.html

*6 アムネスティ 死刑廃止 - 最新の死刑統計 2014年現在で人口1億人あたり死刑執行数はイラン373人、サウジ312人、イラク183人、中国74人、スーダン61人、シンガポール37人、台湾21人、エジプト18人、アメリカ11人、日本2.4人などとなる

*7 内藤正典1 内藤正典2

*8 池内恵

*9 質疑はこちらを参照 http://togetter.com/li/923695

*10 記事記事論文

*11 松尾 http://synodos.jp/economy/12177