医療システムの現実と分類:あなたはどれが好みですか?(2)

第二節 医療費はいかなるものであるべきか?

 医療制度を設計する上では、もちろん安くて早くて上手ければいいのが、実際には現実の制限があり、常にトレードオフ関係のある労力投入対象から選択しなければならない。従って、国民自身がどのような医療を選択するか、という問題にかかっている。医療経済をシステムとして語る者や医療システムを設計する政治家は、有権者に可能な選択肢とそれを選んだときの見込みを知らせることはできるが、現実の制限を超えるものを作ることはできないし、有権者が可能な選択肢を示された上で選ぶ方が健全だろうというのが私見である。ここでは、医療システムを設計する上で考慮すべき論点をいくつか並べ、どれがよいという断言をなるべく避けて列挙するにとどめたい。

医療費を政治決定する上での倫理的課題

医療と介護は「降ってわいた災難」か

 医療費や介護費をわざわざ支払う発想が薄く、政府が極めて手厚い保険を扶助して、さらに法律で価格まで低く縛り付けた上で、やっと成立しているような状況である。なぜこんなことになっているのだろうか。

 個人的な考えだが――健康なのが「当然あるべき“現状”」であり、病気という「降ってわいた災難」をケアする医療や介護は、災害救助と同じように無条件無償で“現状”復帰させるプロセスである、という日本人の発想が垣間見えるように思われる。

 それが「人生の中で当然負うべき負担」であるのならば、扶助しないか、あるいは再分配による人生の支出循環の平均化のみが行われるだろう。

 そうしたほうが介護疲れによる心中なども防げると筆者は考えるのだが、いかがだろうか。

健康の不可侵性――命の格差は認められるか

 普通の人権意識から言えば、命や健康はなににもまして不可侵であり、「何人たりとも」「可能な限り」守られるべきである、命に差があってはならないという生存権的な建前が存在する。しかし、「何人たりとも」「可能な限り」という縛りは、無制限のコストを要求する物であって、現実のコストの壁を前にしたとき、なにがしかのトレードオフを迫られることになる。その際のトレードオフでどのような選択をすべきか、主に倫理的観点から列挙を行う。

再分配性

 医療の存在は、金を払えば=それだけの労働コストを投入すれば、命が守られるかどうかに差が生じる事態を現実とする。富豪と貧乏人の間に命の格差が生まれてしまうのである。しかし、働く気のない貧乏人であっても生きたいと申し立てれば他人を服従させ医療の労働コストを支払わせることができる、などということは果たして正義と言えるのだろうか。言い換えれば、労働、経済、所有などの自由もまた基本的人権であり、生存権と自由権という基本的人権の間にコンフリクトが生じる

 多くの国では「命はある程度は平等であるべき」として、定率医療の国であれ定額医療の国であれ、所得に応じた徴収を行い、所得と無関係に支出する。両者ともに医療費の徴収額における累進性が再分配の根幹をなしており、定率医療であれ定額医療であれ、基本的に受けるサービスは確率論的に平等である。定率医療の場合は自己負担が残るので自己負担の支払い余力によって多少累進制が落ちるが、ここは累進性の根幹ではない[要出典]。また、徴収の累進性とは別に、患者支出のある国では低所得者をケアするための特別の仕組みが存在する。日本であれば生活保護の一部に含まれる医療扶助であり、アメリカであればメディケイドなどがそれにあたる。

 日本においては、所得の大小に関わらず働いてコミュニティに貢献する努力を重視する傾向にあるので、障害者であるとか介護のために仕事を辞めざるを得なかったという場合を除けば、フリーライダーを忌避する傾向がある。その忌避傾向の一つの表れが所得税の医療費控除である。働くという意思を示していて、かつ医療費がかかった場合、これは再分配を受けるに値するという考え方である。こういった考え方をもって日本人は失業者や非労働者に厳しいと見なす見方があるが、筆者の知る限りにおいては、英仏などでも生活保護に完全依存しているようなフリーライダーに強い嫌悪感を持っている人々が相当数いるのは確かである*1し、アメリカの国民皆保険騒動でもフリーライダーに対する嫌悪が見られる。スウェーデンやデンマークなどワークフェア型の国では失業者は強制的に厳しい職業訓練所に入れられるため、この問題は直接には噴出していないが、これらの国は同時に、外国人の失業者は別であり国に帰るべきだという福祉国家主義的傾向を見せている。どこでどうバランスを取るかは国民の好み次第というところだろう。

最大多数の最大幸福か、マイノリティも救うべきか

 また、生きる権利に差はないとするのであれば、稀な重病はサポートされるべきであり、実際日本国内では、少数だが重篤な病気には特定疾患治療研究事業(難病支援)のサポートが入る。一方で、コストパフォーマンスを重視すべきであるならば、公的投資は誰でもかかる病気の治療を安くすることに注力すべきであって、量産効果や知的財産商売のスピルアウトが期待できない奇病・難病は無視したほうが「最大多数の最大幸福」に近づくであろう。難病の治療は受益者があまりに少ないので、これに医療資源を投入することは市場的にも民主主義的にも“非合理”である。しかし、多数優位の選択を取った場合、政府はコストパフォーマンスの悪い難病患者は生きなくてよい、と宣言しているに等しい。この問題は、アメリカの国民皆保険問題で、限られた財源をどこに投入するかという選択に対し命に線引きをするのかと広く問われることとなった。公共事業などでは「受益者が偏っているものなどやめてしまえ」と言うことは可能だが、医療に関しては、命の不可侵性があるかぎり、そう単純には行かないのである。

どの程度までの延命を認めるべきか

 健康問題、特に命に関わる問題については、医療費を出し惜しみすること自体が許されないというバイアスは確実に存在する。軽い病気や慢性病の場合には患者がコストを考えて医療を受ける余地があるが、救急の場合などはまずは伺いをたてている暇はないので標準で最善の医療が提供されることになる。裁判例や行政の建前からすれば、「医療サービスを受けながら医療費を払えなかったので病院から追い出す」は許されても「払えそうになかったので医療サービスを提供しなかった」は許されないのである。また、自分の病気であればコストに応じて選択することは可能だが、家族――特に痴呆や意識不明になって本人の意思による選択ができなくなった場合も、倫理観や世間体の都合上、手を抜いて安い医療を提供することができない。そして、医療が進歩するにつれ、既知の最善の医療は、医療の提供する幸福度の上昇にそぐわないほど無制限に医療費が増大するようになっている。そのため、日本でも、「ちょっと変な病気にかかれば医療費がいくらかかるか分からない」と恐れられ、それが貯蓄の動機の一つになっている。

 そう言った問題を避ける有効な方法は、国がある程度のラインで保険適用の増大を断ち切ってしまうことである。より寿命を延ばし幸福度を上げる方法は知っているが、金がないからやりません、ここで線を引きます――そう宣言することである。ただしこの方法は、再分配を伴う公的医療の制度設計では大きなコンフリクトを生む。患者自身が完全に自己負担で医療サービスを受けているのであれば命の線引きを回避でき、金がある人の命はよりサポートされる。健康は所得や財産に関わらず不可侵であるべきだとの立場を政府自らが壊すことになる。これを認めるかどうかは、政治的、集団的意思決定の問題だろう。

競争によって医療の質は向上するが、コストが下がるとは限らない

 医療費の増大に対処するにあたり、市場主義的な発想からは、医療にコストがかかるというのなら競争によって下げればいいという意見が出てくることがある。だが、現実の医療技術の開発現場では、競争は質の向上をまず生み、コストが下がるほうに必ずしも向かうわけではない。これは前述の「健康は不可侵であり、払える限り良質の医療を受けたい」という(司法や行政が暗黙に仮定する)患者側の志向が原因である。自分が致命的な病気にかかれば、努力はできる限り寿命の延長のための努力に支払われるべきであって、安く仕上げるために命が危険に晒されるのは困る、と感じてしまうことだろう。患者がそのような物を好む傾向がある限り、市場競争による生産の改善は、それを満足させる方向へと向かう。    この問題は、コストのかかる慢性病・長期入院の場合には回避される可能性がある。例えば人工透析の必要がある患者では、多くが患者自身も政府同様に医療費の増大に悩まされているからである。この場合には、患者と政府の間で「寿命の延長よりもコストの削減を優先する」という合意が成立する可能性はあるだろう。他の糖尿病などのケアに関しても同様である。痴呆に関しては、自身が痴呆になったときどうして欲しいかを健常なときに問えば、比較的「迷惑をかけないように死なせてほしい」という答えが多く出る。このように、個別の病気についてコストを下げる方向への合意の可能性があるが、それをどのようにシステマティックに取り込むかは、個別の病気について検討を行ったときに明らかになるだろう。

「コストパフォーマンス」はどこにあるか?

 保険適用に線引きを加えることとして、政府はどのような医療を推奨すべきだろうか。経営的な考えからすればコストパフォーマンスの最適化をすればいいという考えがあるかもしれないが、医療においてそれは決して容易なことではない。例えば、同じ病気を治療する手術について、10万円で成功確率が80%の術式と100万円で95%の術式があったとする。それぞれの術式はで失敗する割合は5回に1回と20回に1回なのでパフォーマンスには4倍の差があり、コストは10倍の差がある。従って前者の方が「コストパフォーマンス」としては良好である。しかし、もし手術に失敗したら命が危ないとしたら、5回に1回「も」失敗することは、容認できるだろうか?国にとっては5回に1回というのはただの確率かもしれないが、治療を受ける患者自身にすれば、5回に1回失敗するということをどう感じるだろうか?本当に消費材と同じように考えられるのであろうか?結局のところ、健康に対する不可侵性の意識があるならば、コストパフォーマンスの評価自体に社会的合意が必要であり、不可侵性を加味した「命の価格設定」が必要になるのである。不可侵性をどこまで重視するかは、難しい政治的合意が必要になるだろう。

既存の提案は、どの程度まで政治的批判に耐えられるか?

医療提供者を拡大する

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*1 英国では「親子2代で子供手当で生活するために4人以上の子を産む」といった生活保護の拡大再生産をしている層が存在し、生活扶助で贅沢をしている人々を侮蔑する言葉としてchavという言葉ができているほどである。