供給過剰や新興国によって貧しくなった論は誤りである

 近年の新興国からの輸入の増加から、低賃金の国に職を奪われたので貧しくなった、という議論はよく見るところであり、また筆者自身も長らくそのように書いてきた。しかし、議論を重ねた結果、その認識が必ずしも正しいとは言えず、低賃金の国に職を奪われたことが直接の原因とは言い難いという認識に達した(ほとんど叱られたようなものだが)。本稿では、その認識について(まったく右の人に教えてもらったことを左の人に説明するがごとくだが)記述してメモとする。

「失業は存在しない」という経済モデル

 新興国からの輸入によって国内の失業が生じるのは、一般的には、供給過剰になるからであるという言い方がされる。

 しかし経済の古典的な原則からすれば、供給過剰はありえない。もっとも原始的には、人々は自給自足しているのであって、自分の望む物を自分の生産できるだけ生産している。ここには「欲しい物を作ることができない」という課題は存在しえるが、必要ない物は生産しなければいいだけであって、供給過剰問題は存在し得ない*1

 実際の経済では、自給自足モデルに加えて生産性の向上を得るために分業している。「供給過剰」と呼ばれる問題は、この分業によって出現する。ある特定の品目について、その需要量が減る、または生産性が向上して同じ人数で需要より多くの物が生産できるようになると、商品が余るようになる。同じ商品が多量にあればその商品の限界効用(=商品を1単位増やしたときの効用の増加≒商品一単位あたりの価格)は落ちる。これはモデル的にも現実的にも確認されている。これが原始的な失業の発生モデルである。

 商品の価格が落ちれば、供給側(労働者や企業)は安い物ばかり作っていては儲からない。儲けを追求すれば、彼らは別の限界効用の高い商品を作るだろうと予測される。すなわち、生産過剰な商品を生産する労働者は、低い所得に甘んじることなく、作る商品を替えていき、市場に出回る商品は限界効用が均一になるように構成に収束していくだろうというストーリーが導かれる*2。言い換えれば、ある商品単品が供給過剰ということはあり得るが、全体でみれば、売り買いされる物やサービスの種類が増えていき、失業者は吸収され、人々はより多種類の商品からより高い満足を受け、全体でみれば供給過剰にはならないはず、ということになる。これが近代的なミクロ経済学の基盤が想定する経済の変動である。

 一般的に低賃金国家に職を奪われたせいで日本が貧しくなったと考える人は多いが、前述の“供給過剰は存在しない経済の原則”からすればこれは間違いである。なぜならば、ある職が途上国に流れていけば、日本人は別の限界効用がより高い商品を作ると予想されるからである。貿易がなぜ行われるかと言えば、絶対優位にしても比較優位にしても、基本的には分業して得意なものを生産することで自分の受け取る商品の量を増やせるからであるる*3。これを低賃金国家との関係に当てはめて具体的に記述すると、「少し働いてちょこっと生産すれば、安い労働力が作ってくれる商品と有利なレートで交換して、楽に生活が維持でき、浮いた時間でもっと別の生産ができる」ということになる。浮いた時間で何をするかといえば、別のモノやサービスを生産すればいいし、モノはもういらないと言うのなら、遊ぶなり、娯楽に使うなり、介護に支払うなり、何にでも好きに使えばいいのである。

 この現象は実際に、1970年代に軽工業国から重工業・先端産業へ移行する段階では顕著に見られた。お針子さんが内職するような産業は韓国や東南アジアに出され*4、日本には知的集約を必要とする産業が発達した。バブル期には、国内の単純労働にも徐々に外国人が見られるようになり、日本人の職は娯楽産業などへ拡大し、リゾートブームでゴルフ会員権が儲かるなどといった風潮が広がり、年金が“優良な投資物件”に“乗り遅れないように”グリーンピアを作っていたような頃である。

 ミクロ経済学が想定しているのは、このような幸福なるWin-Winの雇用の移転であり、1992年までは実際にそのようなサイクルは存在した。カネの介在を除いて物々交換に戻して考えれば、低賃金国家に生産を委譲することで先進国は楽にもっといろいろなことができる、ということになる……はずなのだ。

その原則から漏れて、人々を貧しくさせているように見せるものは何か?

 さて、いくら「原則的に貿易は人々を豊かにする」と嘯いてみたところで、現実的には安い労働力がもたらす安い輸入品により国内労働者の所得が落ち込んでいるように見える。これはなぜだろうか。単純に言えば、輸入の増加により浮いた労働者が、新しい高く売れるような商品を作るに至っていないということである。好きなことに使っていいはずなのだが、特に金を払いたいとは思えない商品ばかり……と消費者が思っている、それが現代の状況である。なぜ、そのような状況になってしまったのだろうか。これにまつわるいくつかの説を見ていこう。  

雇用の粘着性説

 新しい商品を作ればいい、と経済学者は簡単に言うが、実際の労働者は、自分が作っている商品が売れなくなったからといって、そんなにすぐに新しい商品を作ることができるようになるわけではない。また新しい商品を作るのであれば、売れるかどうか分からない未知数の製品に設備投資しなければならない。これは新しい商品を作る上での大きな障壁である。この障害は高く、労働者はこの障壁を越えるのを厭うて今まで培ってきた技能と職場に執着し、そのために新しい商品の生産に移動できない、という見方が存在する。

 もっと極端な場合には、転職自体がなんらかの理由で不可能である場合がある。この問題を比較的分かりやすく示す例は、土建業従事者に介護ヘルパー資格を持たせる試みである。現在、同じ公的支出なら土建は無駄で介護が求められていると言った風潮があり、その実行のために、1990年代から政府の促進もあって続けられている。しかし、土建業に従事しているような男性は介護に求められていないケースが多々ある。女性は男性と女性の両方を看ることができるが、男性は慣習的に女性を看ることはできず、男性のみを看るという傾向が存在するからである。実際問題として、土建屋が介護職に転職するのは難しいのである。この問題を解決するには、夫婦であれば、主たる家計支持者を男女入れ替えなければならない。*5

 「作る品を変えればいい」という提案に応えるのも簡単ではないのである。このような問題は「雇用のミスマッチ」という呼称で把握されることが多かった。

 このような雇用のミスマッチ障壁を超える方法として、小泉時代に資格取得の範囲の拡大が考えられ、実行に移された。転職に必要な要件を転職を希望する人に明示し、転職を受け入れる人には転職希望者の職能の有無を見える形で提示することで、「先の見えない転職」から「先の見える転職」にし、雇用の粘着性を少しでも下げようとする試みであった。この時代は全体的に転職がもてはやされ、雇用環境が改善してきた2004年頃には「入社3年目の転職」が一つのキーワードとなった。

 この考え方は、2008年頃に一度賞味期限が切れた。会計士は明らかに供給過剰になり、弁護士さえ供給過剰気味になりつつあるという報道がなされている。資格取得支援は、国家資格=国による品質コントロールが必要な業種に限られ、国家資格によっては把握されない技能については評価の対象外となっている。このために、国家資格が必要な業種以外の転職を雇用のミスマッチを解消することができなかった。もし国家資格の外までカバーするつもりなら、ワークフェア的な国で行われている職業訓練を拡大し、民間資格のカバーする範囲まで技能の明示化を行う範囲を拡大する方法がある。おそらく、ジョブカード制度を拡張したものになるだろう*6

 ただし、これらの政策は、消費者が積極的に買いたがっているものがある程度分かっている場合に特に有効になる政策である。消費者が何を求めているか分かっていない場合や、流動性選好のために商品を買いたがってない場合には、それらがボトルネックとなってこの政策の効果はかなり限定的になる。次に、消費者が何を求めているか分かっていないのだ、という説を検討してみよう。

商品の魅力不足説 

 なぜ高度成長期には人々は物を買っていたのだろうか。それは、人々が借金してでも買いたくなるようなもの、家や「三種の神器」「3C」といったようなものが不足していたからである。もしかしたら、この先にもこのようなものがあるかもしれない。1990年代前半は日米ともに不況であったが、通信の発達、携帯電話とインターネットの普及は、人々に貯金を崩してでも消費させる魅力をみせ、ブームが一服する2005年頃まで両国の景気と雇用を牽引していた。実際、現在までに増加したプログラマの雇用は相当数に上る。そのとうな、人々がどうしても欲しくなる新しい種類の商品が発明されれば、人々は消費に走り、金回りが改善し、その生産のために雇用が増加するという考え方ができる。

 小泉竹中時代にこの線で行われたのが、イノベーション支援、すなわち研究開発減税、会社法改正やLLP法による少人数企業立ち上げの容易化、大学へのベンチャー立ち上げ支援、そしてそれらを金融的に支援する「貯蓄から投資へ」のキャッチフレーズであった。これらはかなり正攻法のデフレ対策であり、既存の雇用を犠牲にすること無く、経済規模と雇用の両方の増大を満足させるはずのものであった。また、世間に流布する規制緩和にもこのような筋の議論がある。「規制緩和が経済の浮揚に繋がる」という説の多くは、規制によって魅力的な商品の開発が妨げられていることが景気停滞の原因であるとしている。そのようなことがある実例として、郵便や大型貨物の慣習的枠を排して小口の輸送業務にかかっていた規制を緩和した結果、宅配という新しいサービスが現出して付加価値をつけるようになった、というのである。この説も、確かに宅配という業態の開発についてはそうであり、その例だけ考えれば一理あるように思われる。

 しかし現状は、供給過剰という言葉が紙面を賑わすほどの状況になっており、前述の政策が成功したようには見えない。原因を直接に特定するのは難しいが、少なくとも以下の2つの条件のいずれかは満たしているだろう――一つ目は、どんな新しい種類の商品が需要されているか分からない、消費者として何を欲しているか分からないということである。最近覆い言説としては、Appleはあんなに売れる商品を作ったのに日本の家電メーカーは……というのがその例だろう。要するに日本企業はマーケティングが下手すぎるということなのだが、これについての定量的評価は残念ながら筆者は知らないため、これについてこれ以上筆を進めることはできない。

 ただし、消費者がなにを求めているか政府が分かっていて誘導できるような状況ならそもそもデフレ不況にはなりそうもない。民間のイノベーション支援や起業支援を行ったのは「政府は個別の商品のどれが欲しいか分からないかもしれないが、民間人の誰かは知っているだろう、試させてみれば良い」という楽観論に基づくものである。2010年の現実は、そんな簡単なものではなかった、ということを示している。このあたりについては一家言無いことも無いのだが、それはここで書くべき範囲を超えているので、また別の機会に譲ることにしよう。

 規制緩和をすれば産業が生まれるはずだという期待も楽観的に過ぎるだろう。公共の専売サービスとして行われているものは、すでにそこで働く人がいて給料が支払われて金が回っているのであり、これを民営化したところで雇い主が変わるだけであって、行政のスリム化にはなっても新産業が生まれるわけではない(公共サービスに+αでなに付加価値をつけられる可能性はあるが)*7。また、規制自体もタクシーの台数規制など最低賃金を守るための需要コントロールの側面があるものもあれば、賭博や売春など経済以外の倫理的面から規制されているものや、環境負荷の高いものなど市場の外部不経済によって規制されているものもあり、何でもかんでも取っ払えばいいというものでもない。むしろ、ある種の規制を強化する(炭素税etc.)ことは、サービスの押し売りを成立させ強制的に消費を増やすことすら可能であり、デフレ下においては景気を伸ばす要因になりえさえすることもあり得るのである*8。介護を緩和しろという人もいるが、介護は保険制度によってサービスを押し売りしている側にあたる。自費で支払えと言って払う人はそれほど多くないと思われる*9

 「人々は次々と新しい商品の生産に邁進するはずである」というミクロ経済学の古典的なモデルがある程度正しいにも関わらず「低賃金国家へ雇用が移動したら」低賃金国家に職を奪われたという感想があるのだとすれば、やはり浮いた時間で生産したい商品が分からない=どんな新しい商品を受け取りたいか分からない、ということになる。

 もう一つの可能性は、モノやサービスの効用より流動性のほうが選好されているという可能性である。「若者の○○離れ」という話題では、買いたい物はあるのに将来の不安が云々と、むしろこちらが指摘されることが多い。次にこの可能性について検討していこう。

金融デフレ説

 古典的な経済学のモデルでは、労働力が余った場合には他の欲しい財やサービスの生産に労働力が移動し、消費者は受け取る効用がが増えているはずである。しかし実際はそうはならず、人々は市場を通じた分業の以来票であり投票券である現金を行使せず、効用の受け取りを拒否している。その結果商品はただ安くなり、何も生産を頼まれない人(失業者)が増えつつ、金がたまっている。これが一般的に消費不況ないしデフレ不況として認識される状態であり、その程度はデフレギャップという指標により把握される。

 人々が商品を「今」購入しない理由を一番簡潔に言い表すならば、何らかの理由で今消費するよりも将来に先送りするほうが有利と考えられているから、ということであろう。老後の不安が云々と言われることもあるが、限界効用逓減の法則を前提に置けば、(耐久消費財は減価償却と計算すると仮定して)一生を通じて毎年の消費額を一定にしたときに受け取る効用が最大化されるので、老後に備えて貯金するのは普通のミクロ経済人モデルでも至極当然の行動である。

 しかし、これはミクロでは最適な行動になる得るが、マクロではそうではない。失業の発生を誘発するからである。労働力を無駄なく使って我々の受け取る効用を増やしたいなら、失業者を働かせたほうがマシである。ミクロで「いま消費を我慢すれば後で受け取る効用が増える」ことはありえるが、マクロで「いま失業を増やしたから将来の日本全体の生産が増加する」いうことはありえない。失業を放置することは、その失業者ができるはずだった生産を永久に失っているだけである。ミクロの最適化がマクロの非効率を生み出す、典型的な合成の誤謬が起きているのである。

 個人の利益最大化行動が全体の非効率を生み出す。これはゲーム理論の「囚人のジレンマ」に典型的にみられる状況である。デフレ状況でカネを使わないということは、ちょうど囚人のジレンマの非協力-非協力の状態にあることを意味する。互いに金を貯めたがっている状況で協力(こちらが金を払う)すれば、相手に金が貯まり、自分は得をせず相手だけが大きく得をする。お互いが非協力を選び金を払わければ、メンバー間で損得は発生しないが、全体では失業の発生という大きな損をしている。これを協力-協力にすれば――お互いに商品を買い合い、産物を交換をするという合意が取り付けられれば――社会のメンバーはより大きな便益が得られるはずである。協力する(物を買う)ことに一種のインセンティブを与えれば経済はよりよく回る、ということになる。

 ちなみに、このような状況でも、最低賃金を廃止して労働力が安く買いたたかれるに任せれば、失業は発生しないはずであり、「職を選び過ぎ」と言われることがある。職を選んでいる傾向は雇用のミスマッチでもある程度あることは確かだが、安く買いたたかれることにはもうすこし別の側面、世代間格差がある。人々が現金そのものを求めると、現金の価値が上がる。これは人々が特定の銘柄の株を求めれば値が上がるのと全く同じことである。このとき、世代的に先に現金を手に入れた人は、世代的に後から現金を求める人が出ることで含み益(キャピタルゲイン)を得る。この仕組みも株と全く同じである。現金の場合、その含み益は「同じ労働で同じ物を生産したときの賃金・購買力の差」として表れる。これは株のバブルで最後に乗った人が損をして物を買えないのと同じメカニズムである。要するに、今の高齢者は「現金バブル」に最初に乗った人であり、若者はバブルがはじけそうな時期に乗せられた人、という具合である。

 ただし、この世代間格差は高齢化があれば必ず発生する、というわけではない。1980年代には、新興国からの輸入がこれほど増えるとは思われておらず、高齢化は労働者の不足を引き起こし労働の値がつり上がりインフレとなって相殺されるだろうと考えられていたが、結果は見ての通り、国内の生産性の向上や貿易による見た目の生産性の向上でデフレとなった。もっとも、日本は恒常的に貿易黒字を計上し、輸出で稼いだ外貨でせっせと貯蓄に励んできたので、円高になって新興国から安い輸入品がくることは、必然だったかもしれない。

 この問題を強引に解決させるモデルとしてインフレ誘導策や中立貨幣といった、貯蓄の魅力を下げることが議題に上ることがある。貯蓄の魅力が下がって、使わなければ損だと言う状況になれば、人々は躊躇なく稼ぎを今の消費に回すだろう。大した贅沢はできないにしても、ちょっと時間がほしければ宅配を頼んで買い物時間を節約したり、介護やベビーシッターの利用もずっと増えるだろう。今現在買う価値がないと考えられている商品を買うようになるだろう、とこれで雇用も回復するという算段だが、貯蓄禁止というルールはライフプランの設計をする上では大きな足かせになるだろう。

終わりに

 結局、新興国との貿易による生産性の向上や、国内的な生産性の向上による供給過剰論とは、所詮は余った生産力で買いたいものやサービスが見つからず、目的もなく貯金することにより金周りが悪くって生産が落ちるという話に他ならない。新興国が登場しなくても、どのみち貯金を続けていれば円高が今よりもひどくなって、どのみち国内の製造は難しくなっていただろう。問題は基本的に日本国内にあるのである。

 余談になるが、「若者の○○離れ」の議論では、もう手に入れたい物は全て手に入れて供給は飽和しており、人々はこれ以上働く必要も無いし、という議論が存在する。だがちょっと待ってほしい。我々が手に入れられる生活は、現在の物が最善なのだろうか?今のあなたの生活は、あなたが望みうる最善の生活だろうか?あなたがもし仮に一生毎年1億円使っていいと言われれば盛大に贅沢するのではなかろうか。もし仮にSFの世界にしかなかった商品が具現化されれば買ってしまうのではなかろうか。筆者個人としては、まだもっと面白い商品は多分あるだろう、と考える。

Last modified:2010/12/30 12:21:22
Keyword(s):[デフレ]
References:[消費意欲が足りないのか、貯蓄意欲が強すぎるのか?]

*1 このようなモデルの極北がリアルビジネスサイクル理論などであるが、あまりにも現実的ではないので今ではあまり顧みられることは無い。

*2 市場がこのように新商品開発を進める機構を内蔵していることは、中央の指示に基づいて生産する計画経済よりも市場主義国が発展した理由としても大きいだろう。ソ連など社会主義国は、戦争によって重工業の技術革新を迫られた1945年以降遅々として進まず、1990年にはもはや取り返しのつかない大差となって表れていた。

*3 これは国内の生産性が向上するのとほとんど同義である

*4 当時は改革開放以前で中国という選択肢は無かった

*5 ただし、介護職そのものが、政治的要因から需要側からの強力な値下げ要求に勝てないという問題もあり、単純ではない。

*6 個人的には小泉竹中時代には、ワークフェアの国にフィットした順当な政策を行っていることに注目している。実際、ジョブマッチングは菅政権でも雇用対策の目玉的に拡充されているのである。これらの政策を行いながら、一方的に雇用の的呼ばわりしていては、政権を取った後に車輪の再発明をしてしまったり、最悪の場合批判してきた手前同じ政策を取れずに立ち往生する危険さえある。

*7 ただし、郵政民営化については金融デフレ問題に対する議論と同じ文脈から生まれた物であり、別枠で次節で扱う

*8 インフレ下では効率化した方がもちろん良い

*9 もちろん介護自体を最適に利用できるよう制度を見直していくということは怠ってはならないが