現代社会における“理想の政治”の原理的困難性

人口が多くなると政治に意見が届きにくくなる

 先に、性質を論じるためのモデルを考えてみよう。まず単純に、人口が増えれば一票の価値は薄まる。これは日本では選挙のたびに「一票の格差」として取り上げられるものであり、なじみ深いものだろう。例えば、政治には全員の意見の平均が反映されると考えてみよう。 「1対1での合意を繰り返して全員一致を目指すならば、」

人口増大による政治参加のハードルを示すと思われる例

 一つ目は、「人口が多くなると腐敗認識指数(市民が政治が腐敗していると感じる“肌感覚”)は大きくなる」という関係を紹介する。――もちろんこれは相関に過ぎないが、逆の因果(先進国では政治が腐敗すると人口が増える)はちょっと想像しづらいし、偽相関であって別の真の原因があるというのもあまり想像がつかない。

CorruptionPerceptionsIndex2014vspopulation

 二つ目は選挙資金と人口の関係である。――インドや米国では日本よりもずっと金にものを言わせた選挙活動が繰り広げられる――

 逆に、北欧など人口の少ない国では、副業議員や、他のキャリアを中断して一時的に議員になる人というのが珍しくない。現地の事情を紹介した記事1では、

「スウェーデンの政治家はボランティアだ」
「議員が一生の仕事であってはならない」    スウェーデンは人口1000万弱に対して349人の国会議員がおり、議員当たり人口は約27.5千人である。一方日本は人口1億2000万強に対して707人の国会議員であり、議員当たり人口は179.5千人であり、5倍以上になる。

 日本でも東京都、大阪府、神奈川県などは人口1000万弱程度でスウェーデンと同程度になるが、都道府県議員はスウェーデンの国会議員と似たところがある。例えば約半数が兼業議員とされ2、25歳となり被選挙権を得て最初の選挙で当選する地方議員は数多い。一生の仕事ではなく、若者も数多くいて、月給は80万円前であり、有権者との直接対話も多い。

 国会議員となると事情が大きく変わってくる。党で長年働いて顔を売ってきた専業職員か、最初から知名度と基盤を持つタレントや有名経営者の類、あるいは地盤看板カバンを引き継いだ世襲議員でなければ候補でなければ当選するのは難しい。 議員が直接意見集約するには多すぎる人口を抱えるがゆえに、中間団体を挟まないと意見が埋もれてしまう。

小規模コミュニティに政治決定権を下ろす

 政治単位の人数が多くなった場合に生じる問題を解決するには、政治の単位を小分けして参加人数を限ることが最も直接的な回答になるだろう。実際、民主主義の機能維持を狙って公の意思決定単位を小さくしようという試みは、いくつか見ることができる。

 山脇直司氏の「新しい公共」3は、公私(publicとprivate)のうちpublic側を二つに分け、政府の形をとる公と、政府ほど手続き的ではないが手に届く範囲の協力関係として形成されるcivilやcommonとしての公の2種類があると謳う。そして後者の側に「新しい公共」という名をつけ応援することで、小グループでのきめ細やかな意思決定とケアを可能にすることを提案している。「新しい公共」は政府側の指針としても取り入れられているものの、実質的には政府支出を減らしたい(カネでのやり取りを嫌う)財務省方面の意向で行政サービスを物々交換化して支出減を狙う方法のように扱われているきらいはある。

 民主主義的な政治参加感が不十分で有権者が政府をコントロール不可能であると感じているとき、その有権者にとって政府の決定は信用しにくくなる。翻って、政府(または広義の公)の決定に信頼感を持たせるためには、コントロール感を強めるための方策として意思決定単位を小さくすることはあり得る。五十嵐泰正氏が震災後に柏市で行った放射線測定、農作物流通はその好例だろう4。震災後、原発からの放出物が多い地域の農作物は敬遠され、検査の結果放射線が検出されない農作物でも産地だけを見て信用しない人が多かった。柏市も多くの放出物が降り積もった一つで、農家はそれに苦しんだが、柏市ローカルでの測定プログラムを行うことでこれを解消しようとする試みが行われた。そこでは、地産地消とすることで消費者と生産者が直接顔を合わせる意思決定が可能になり、生産・流通・消費のルール設定に消費者のコントロール感が生まれ、農作物を信用するようになった。参加感、コントロールの重要性は紹介記事の「『みんなで決めた』という安心とその波及効果」という小見出しにも表現されている。  

 もう少し加えると、個人的な経験で申し訳ないが、「NYやロンドンなど世界中を飛び回る金持ちが投機的に不動産を買う都市では庶民が生活できなくなる、あるいはノマドの意向が定住者の意思決定を薄めてしまうという問題があり、これを回避するために移住を制限すべきではないか」という議論に接したこともある。これは意思決定単位の人口を小さくするラディカルな意見の一種だろう。

人口増大に起因する理想の民主主義の不可能性

欧州では現在EUブリュッセル政府に対する不信感が強まっているが、これはその端的な例と言えるだろう。

一方で、最後の例にもある通り、意思決定単位の人口を小さくすることがある種の排他性を産む懸念も存在する。

かといって、意思決定単位を単に小さくするのも問題がある。例えば「新しい公共」を政府支出削減のための方便にしようという動きはあるが、介護等の属人的サービスなどを「新しい公共」に委譲したならば、富裕層が小さくまとまって連帯を作ってしまい再分配が停止するといった事態は考えうる。こういった事態の発生が予見される場合には、予算はある程度大局的に割り振ってしまい、使途については小さな意思決定単位でカスタマイズする、といったほうが好ましいだろう。

現代は、グローバル化により社会の単位が大きくなりつつある。これは、意思決定単位の人口が自然と増え、民主的政治参加に支障をきたすのが当たり前の時代になっている、と見ることもできよう。この問題はおそらく不可避であり、誠実な取り組みが求められていると考える。

 理想の民主主義のありかたとして「すべての人がすべての人と話し合い問題を解決する」という姿を描くことができる。多数決は是か非かといった議論もなされているが、「直接民主制で全会一致を原則とする」に勝る合意の確認手段はないだろう。実際、メンバーが少ない団体ではこのような原則を採用する例も多い。しかしながら、人口が多くなればこれは困難になり、間接民主制や多数決といった“強引な”方法が採用されるようになる。この“強引さ”を嫌って意思決定単位、政府を縮小するという方向性はありうる。山脇流「新しい公共」などはその理想を述べたものであろう。しかし、巨大都市住民制限論などに現れるように、共同体メンバーシップの制限、閉鎖化と表裏一体の関係にある。

 今現在、この問題が目立つ形で表れている例としてEUを上げてみたい。現在EU内では「EUは非民主的」「自分たちの意見が通らない」「どこかのエスタブリッシュメント様が勝手に決めごとを作って押し付けてくる」といったイメージが蔓延しており、イギリスのBrexitをはじめ、ほぼすべての国に反EU主義政党が議席を持っており、ギリシャやスペインなど一部の国では与党側にいる場合もあるほどである。

 もちろんこれに抗う方法がないわけではない。合意を取るべき相手が増えて時間がかかるというのなら、1対1(1単位)の合意形成速度を上げればある程度速さを維持できるだろう。しかし、判断を下すのに必要な情報のインプット速度、コミュニケーション速度が(人間である限り)劇的に上昇するといったこともまた考えづらい。すなわち今日において、理想の民主主義は人口に対して人間のコミュニケーション能力が不足しているという理由で不可能になっている――そう考えられるのである。